2023年7月9日主日礼拝
「恐れることはない」上野 峻一 先生(東洋英和女学院 聖書科教諭)
マタイによる福音書 28章1~15節

【説教録画は <Youtube>】

 説教題の「恐れることはない」。これは、聖書全体において、私たちに語る重要なメッセージです。マタイ福音書の特徴は、ユダヤ人キリスト者に向けて記されたと言われます。そのため、旧約聖書で前提とされている内容や律法によって記されます。だからこそ、神の子、救い主、キリストが、私たちに「恐れることはない」と語られる時、旧約聖書から続く、主なる神の御言葉として、私たちに語られ、響き渡るのです。

  安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、婦人たちが墓を見に行きます。この箇所は聖書学において問題となることがあります。「安息日が終わって」という言葉が「夕方」を意味するからです。ユダヤ教の理解では、日没で太陽が沈むと次の日になる。安息日が終わって婦人たちが墓を見に行ったのは、土曜日の夜。続く言葉の「明け方」は、「始まろうとしている」という意味で、新しい週が始まろうとしているのです。マリアたちは、安息日が終わったら、すぐ墓に向かったのでしょう。安息日は行動に制限がかかります。だから、彼女たちは安息日が終わるのを、とにかく待っていたのです。 

 「数人の番兵たちは、都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいったと言いなさい。…この話は、今日に至るまでユダヤ人たちの間に広まっている。」イエス・キリストの復活をめぐって、ユダヤ人たちの間に広まっている噂がありました。弟子たちが遺体を盗んで、キリストの復活をでっちあげているというものです。キリストの墓には、兵士たちが見張りを立てていました。恐らく、主イエスが十字架で死なれた時から、弟子たちが遺体を盗むことが想定されていたのでしょう。ユダヤ人たちの間では、主イエス・キリストの復活をめぐって、相当、意見が分かれていたことが想像できます。主イエスは、本当に復活したのか、それとも、弟子たちがでっちあげたのかということです。それほどまでに、キリストの復活は重要で、伝道者パウロがコリントの信徒への手紙で記しているように、主イエス・キリストの復活がなかったのであれば、そもそも、私たちの信仰は無駄であるというほど、教会の信仰、教会の命は、主イエス・キリストの復活に、土台があり、出発点があるのです。福音書は、イエス・キリストの復活を出発点として、逆算して書かれました。イエスさまと出会い、共に生活をしていた弟子たちは、復活のイエスさまと出会い、全ての意味がわかったのです。

  主イエスの復活の根拠は、第一に「空の墓」です。主イエスの死は、大勢の人の前で明らかで、確かなことでした。だからこそ、復活ということには、確かな証拠が求められたはずです。弟子たちの「復活のイエスさまにお会いした」というのは、ご復活の証しとなります。しかし、事実としての証言には証拠が必要です。それが空のお墓でした。現代の私たちには、確認できず、どのように主イエスの復活を考えたらよいか。一つは、復活の証人が、女性であることです。当時は女性の証言は、裁判の証言としても認められません。キリスト教会が、ユダヤ人社会にキリストの復活を認めさせたいのなら、復活の最初の目撃者を男性にすれば多くの人の信頼を得たはずです。しかし、聖書は嘘をつきたくなかったのです。二つ目は、安息日の変更です。キリスト教会が、日曜日に礼拝するようになったことです。ユダヤ人が何もしてはいけないお休みの安息日、神さまに犠牲のささげものを献げる礼拝は、土曜日で、厳格に守っていました。ところが、今、キリスト者は、日曜日に礼拝をささげています。紛れもない日曜日の朝に何か、特別な出来事が起こったからです。聖書が記される前から、日曜日に礼拝をしていました。その最初が、今日のテキストに書いてあります。「すると、イエスが行く手に立っていて「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」。ひれ伏すというのは、礼拝するという言葉です。ここに、主イエスにささげた婦人たちの最初の日曜礼拝が記されています。最初は、ユダヤ人だけの共同体であったキリスト教会は、日曜日に礼拝をささげるようになり、やがて安息日は、土曜日から日曜日へと変わっていきます。この決定的な変化は、日曜日の朝に何か特別な出来事が起こったとしか考えられません。最後は、弟子たちの変化です。主イエス・キリストの十字架による処刑はイエスさまを信じてきた者たちにとって、あまりにも衝撃的な出来事でした。弟子たちは、主イエスが捕まると、見捨てて逃げて、裏切るのです。主イエスの十字架の死後、弟子たちは、今度は自分たちが殺されると恐れ、部屋に閉じこもります。しかし、この恐れの中にあった弟子たちが、数日の間に別人のようになって、恐れずに人々に主イエス・キリストのことを伝え始めます。

 私たちは、恐れを感じる生き物です。その一つは、人を恐れ、他の人と違うことを恐れ、人の目を気にします。主イエスは「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われ、今見たことを、恐れずに伝えなさいと語られます。恐れが、本当の安心に、大きな喜びに変わっていくのです。そして、私たちの恐れにおいて、最も大きな、本質的な恐れは、死です。すべての恐れの原因です。人の目を恐れるのも、自分の存在が、否定されることを恐れるから。変なことを言って嫌われる、意見が認められずに無視され、集団や環境において死ぬことを恐れているのです。主イエスは、人の究極的な恐れの死に対して、恐れるなと語られます。なぜなら、主イエスは、この死に勝利した方であるからです。主イエスは、婦人たちの恐れと、喜びに対して、決定的な言葉を語られます。「おはよう」と記されている言葉です。普通の挨拶で、元のギリシャ語では「喜びなさい」という意味です。恐れと喜びが入り混じった婦人たちに、「恐れることはない。喜びなさい」と語られるのです。私たちもまた、日々の生活・場面で、恐れることがあるでしょう。それは具体的な死を前にした時かもしれないし、人の目を気にした時かもしれません。けれども、主イエスは、そのような私たちに、「恐れることはない」と、主イエスが目の前におられ、「喜びなさい」と語られます。恐れることなく、主イエスが語られる喜びのうちに、新しい歩みを始めたいと思います。