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2022年9月25日主日礼拝
「父の望み」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 21章28~32節
9時半から教会学校

【ネットは <Youtube>】  主イエスが問いかけています。 「ところで、あなたたちはどう思うか。」 。主イエスが問いかけているのは、 「祭司長や民の長老」 です。先週の礼拝で、祭司長や民の長老たちは主イエスに対して、権威を問いました。主イエスはそのような問いかけに対して、二人の息子のたとえを用いて問い返しているのです。  このたとえ話を聞くと、どちらの態度も私自身のことのように思います。「いやです」と反発する姿。「承知しました」と調子よく返事しておいて動かない姿。どちらも当てはまります。  この話は、マタイ福音書にだけ記される話です。長く教会で親しみ、この箇所を覚えてきた方には間違えて覚えたか、他にも似たたとえがあったか?と違和感を覚えるかもしれません。口語訳聖書では、たとえ話の兄と弟の反応が反対に記されています。翻訳の過程で変更されました。しかし、兄か弟か、ということで話の趣旨が変わるのではなく、テキストの中心は、 「この二人のうち、どちらが父親の望み通どおりにしたか。」 ということにあります。   父の望み通りにしたのは、兄です。 初めは「いやです」と答えたが、行った。弟は良い返事はしたが、行かなかった。それを主イエスは、弟は信じているような素振りをしていて結局は信じなかった祭司長、長老として語り、兄のほうは、元は信じていなかったが、後になって考え直して信じた者として、徴税人や娼婦であると語っています。 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」 自分たちこそ、神の国に最初に入る資格をもった者であると自負していた祭司長、長老にとって侮辱となったことでしょう。 当時の宗教指導者たちは、自分たちの思い通りに振る舞わない主イエスに腹を立て、十字架刑へと追いやりました。それは自分たちの信じている真理、待ち望んでいた救いに合わなかったからです。 けれども、主イエスがお語りになったのは、「あなたたちは神の国に入れない」ではなく、順番が後になるのだと言うことだけでした。確かに父の望みに応えたのはどちらかと問われたならば、実際にぶどう園に出かけた兄です。けれども、どちらの息子も本当の望みどおりではありません。  この兄弟は、父親が二人それぞれに働きを求めたときに、二人とも反抗し、兄は拒絶し、弟は上辺だけは丁寧に、父親の

2022年9月18日主日礼拝
「本当の権威、本当の自由」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 21章23~27節

【ネットは <Youtube>】  イエスが神殿の境内で教えられていると祭司長たちや民の長老たちがやってきて言います。 「何の権威で、このような事をしているのか」 。彼らは神殿を任されている人たちでした。つまり、我々の許可なしに勝手なことをされては困る。ここの権威は、我々が持っているのだから、と言いたいわけです。それに主イエスは一つの問いを持って答えられました。 「では、一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも、人からのものか」 。彼らは 「分からない」 と言いました。対する主イエスは、 「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」 と答えられました。   これは、互いに不問にしておこうということではありません。洗礼者ヨハネは主イエスの「道備えをする者」と聖書は言います。そのヨハネの権威の源が分からないと言うのであれば、ヨハネに連なる者であるわたしが何の権威でこのようなことをしているのか、言ってもわかるまい。だから 「言うまい」 ということです。このやりとりの大前提は、他の何が上手く出来なくとも、聖書の言葉(神の権威)だけは蔑ろにしない。自分が信じている言葉だけには従うという姿勢です。けれども、彼らにそもそも、その態度はなかったわけです。 彼らの思いの中にあったのは、自分たちの権威を守りたいというものだけでした。「群衆が恐い」と言います。皆から、神に仕える人と思われていたかったのです。もしも不信仰だと思われたら自分の権威がなくなってしまう。だから、主イエスの問いの前に立たされた時、彼らは答えられなかったのです。しかし、彼らの思いはよくわかるのではないかと思います。聞き心地のよい言葉は喜んで聞くことが出来ます。他方、耳障りの悪い言葉が言われたときには、聞きたくない。だから 「わからない」 と言いたくなる。分かったと言えば、今までの生き方を辞めて、新しくならないといけないからです。 では、彼らはどう答えれば良かったのでしょうか。 「天からのものだ」 と言えば良かったか。しかし、誰が答えられるでしょう。  例えば、「礼拝を大切に。だから遅れないように。」ということを誰かの言葉ではなく、神の言葉として聞き、もしも、それに「はい」と答えたならば、もう礼拝を休

2022年9月11日主日礼拝
「いちじくの木を見て思うこと」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 21章18~22節

【ネットは <Youtube>】   いちじくの木に実がなっていないのを見て、主イエスが枯らせてしまいました。マルコ福音書では、実を付けていないのは「季節ではなかったから」とあります。実を付ける季節ではないのだから、実がないのは当然のことで、呪われる筋合いなどないのに、主イエスは木を枯らしてしまいました。不思議な出来事であると思います。自分が空腹だからと言って、枯らしてしまうのは、酷いと思う。けれども、私たちが気付かないだけで、この身勝手な理由や自分こそ正しいという理由で、主張し行動する姿。これは主を十字架に追いやった私たちの姿です。空腹のためならば、手段を選ばない、まるで強盗ようなの姿。これこそが、あなたたち人間の姿なのだと、聖書はまっすぐに私たちに語ります。ある人は、「聖書は、私たちが違和感を持つ主イエスの姿を通して、実は、私たちの姿を描いて見せている」と言います。そのようにして聖書は私たちがどうしてこんなことが?なぜ?と思うところに私たち自身の姿を映し出します。   いちじくが枯れてしまった様子を見た弟子たちは驚き、 「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」 と言います。主イエスのお答えは、 「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、…信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 と言われました。「なぜ?」には答えず、信仰と祈りについて教えられました。それは、前の話との繋がりがあるからです。 先週の礼拝で、主イエスは、神殿で礼拝の準備に勤しむ人々を追い出されました。そこで為されている礼拝が、主イエスの目には、実のない、いちじくの木のように見えたのです。いくら礼拝が立派なものでも、そこに信仰や、悔い改めの実りが無いのであれば、中身の無い礼拝と同じです。いちじくの木がその象徴としてそこにあるなら、主イエスを殺すことによっても神に仕えていると間違えたままに、誇りを持つ人間をそのままにしておくことなどできないのです。枯らすほどの酷さがそこには秘めています。人は皆、そのままには、赦されない存在なのです。主イエスによる赦しなしには、実を付けることなどできないのです。神への祈りこそ、信仰の実り、悔い改めの実りをもたらすのです。だから主は祈りについて語られたのです。  ここで山が動くということが言われていますが、私たちの力では出来ないことの譬え