2022年9月18日主日礼拝
「本当の権威、本当の自由」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 21章23~27節

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 イエスが神殿の境内で教えられていると祭司長たちや民の長老たちがやってきて言います。「何の権威で、このような事をしているのか」。彼らは神殿を任されている人たちでした。つまり、我々の許可なしに勝手なことをされては困る。ここの権威は、我々が持っているのだから、と言いたいわけです。それに主イエスは一つの問いを持って答えられました。「では、一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも、人からのものか」。彼らは「分からない」と言いました。対する主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられました。

  これは、互いに不問にしておこうということではありません。洗礼者ヨハネは主イエスの「道備えをする者」と聖書は言います。そのヨハネの権威の源が分からないと言うのであれば、ヨハネに連なる者であるわたしが何の権威でこのようなことをしているのか、言ってもわかるまい。だから「言うまい」ということです。このやりとりの大前提は、他の何が上手く出来なくとも、聖書の言葉(神の権威)だけは蔑ろにしない。自分が信じている言葉だけには従うという姿勢です。けれども、彼らにそもそも、その態度はなかったわけです。 彼らの思いの中にあったのは、自分たちの権威を守りたいというものだけでした。「群衆が恐い」と言います。皆から、神に仕える人と思われていたかったのです。もしも不信仰だと思われたら自分の権威がなくなってしまう。だから、主イエスの問いの前に立たされた時、彼らは答えられなかったのです。しかし、彼らの思いはよくわかるのではないかと思います。聞き心地のよい言葉は喜んで聞くことが出来ます。他方、耳障りの悪い言葉が言われたときには、聞きたくない。だから「わからない」と言いたくなる。分かったと言えば、今までの生き方を辞めて、新しくならないといけないからです。 では、彼らはどう答えれば良かったのでしょうか。「天からのものだ」と言えば良かったか。しかし、誰が答えられるでしょう。

 例えば、「礼拝を大切に。だから遅れないように。」ということを誰かの言葉ではなく、神の言葉として聞き、もしも、それに「はい」と答えたならば、もう礼拝を休めなくなり、遅れることも出来なくなります。遅れれば「あのときの『はい』は偽りだったのか」と問われてしまう。そうであれば、誰も「はい」と答えられなくなります。 この「権威」という言葉。山上の説教の終わりにも出てきます。「…群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(7:28-)。

 権威(authority)と著者(author)は語源が同じです。その本の最も権威を持っている人物は書いた人です。つまり、主イエスは、山上の説教で律法をまるで著者のように語ったといって驚かれたのです。 もしも、権威がないのであれば「『礼拝を大切に』と書かれている限り、わたしが勝手に『遅れても良い』と書き換えることは出来ない」ということになります。けれども、主イエスは真の権威を持っていた。だから自由に変えることもできるわけです。つまり、「『礼拝を軽んじても良い』。もし、その代償を受けなければならないのであれば、わたしが受けよう」と仰ることが出来るのが主イエスの権威です。そして、その代償が十字架の死です。本来、聖書の言葉に従えば、神の前に出ることすら許されないような生き方をしているのがわたしたちです。それなのに、どうしてここで聖書の言葉を聞くことが赦されているのか。主イエスが、わたしたちの与り知らないところで、誰の許可もなく、御自身の自由のままに十字架へと向かって行かれたからです。それによって神の真は書き換えられました。 

 もしも、過ちが許されない言葉であれば、誰が「守ります」と約束できるでしょう。できたとしても、そこに喜びはないでしょう。けれども、約束した後、たとえ間違えてしまっても赦してくれる。また、迎えてくれる。そういう関係の約束であれば、いつも自分の傍らに置いて大事に出来ると思います。聖書の言葉は、そういうものです。

  一般に「宗教や聖書は、わたしたちの人生の問いに答えてくれる」と言われますが、違うと思います。今日の聖書箇所は、わたしたちの方に問うてくる姿を描いています。「では、一つ尋ねる」と。ひどい目に遭った、嫌なことがあったとき、なぜ、このようなことばかり起こるのかと神に問い、誰かのせいにして自分の人生を憐れむことも出来ます。けれども、わたしが問う以上に聖書が問うてきます。「その嫌なことがあった人生を、あなたはどう生きるか」と。いろいろなことが起こり、様々なものを失います。出来ていたことが出来なくなります。けれども、神に与えられた自分の人生に対する態度、姿勢だけは、何ものにも奪うことができないものです。自分で決めることが出来ます。「あなたはどうするのか」という問いが聞こえるとき、「わからない」ではなく、「はい。わたしは…」と答えたいと思います。