2022年9月11日主日礼拝
「いちじくの木を見て思うこと」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 21章18~22節

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  いちじくの木に実がなっていないのを見て、主イエスが枯らせてしまいました。マルコ福音書では、実を付けていないのは「季節ではなかったから」とあります。実を付ける季節ではないのだから、実がないのは当然のことで、呪われる筋合いなどないのに、主イエスは木を枯らしてしまいました。不思議な出来事であると思います。自分が空腹だからと言って、枯らしてしまうのは、酷いと思う。けれども、私たちが気付かないだけで、この身勝手な理由や自分こそ正しいという理由で、主張し行動する姿。これは主を十字架に追いやった私たちの姿です。空腹のためならば、手段を選ばない、まるで強盗ようなの姿。これこそが、あなたたち人間の姿なのだと、聖書はまっすぐに私たちに語ります。ある人は、「聖書は、私たちが違和感を持つ主イエスの姿を通して、実は、私たちの姿を描いて見せている」と言います。そのようにして聖書は私たちがどうしてこんなことが?なぜ?と思うところに私たち自身の姿を映し出します。

  いちじくが枯れてしまった様子を見た弟子たちは驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言います。主イエスのお答えは、「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、…信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と言われました。「なぜ?」には答えず、信仰と祈りについて教えられました。それは、前の話との繋がりがあるからです。 先週の礼拝で、主イエスは、神殿で礼拝の準備に勤しむ人々を追い出されました。そこで為されている礼拝が、主イエスの目には、実のない、いちじくの木のように見えたのです。いくら礼拝が立派なものでも、そこに信仰や、悔い改めの実りが無いのであれば、中身の無い礼拝と同じです。いちじくの木がその象徴としてそこにあるなら、主イエスを殺すことによっても神に仕えていると間違えたままに、誇りを持つ人間をそのままにしておくことなどできないのです。枯らすほどの酷さがそこには秘めています。人は皆、そのままには、赦されない存在なのです。主イエスによる赦しなしには、実を付けることなどできないのです。神への祈りこそ、信仰の実り、悔い改めの実りをもたらすのです。だから主は祈りについて語られたのです。

 ここで山が動くということが言われていますが、私たちの力では出来ないことの譬えを語られているのです。私たちにとって、実を結ぶことの困難さは目に見えず、想像もできません。だから、目に見える譬えで、それがどんなに不可能であることなのかを教えているのです。そして同時に、山のように動かしがたいものである、人の頑なな心が神の方へと向き直るように動かされたことも思います。人が何かを成そうとしても限界があります。しかし、神に信頼して祈るとき、私たちの力を越えて神が成さります。あなた方には無理だが神にはできると言われるのです。

  いちじくの出来事を起こした主を見て、身勝手だ。自分本位だと思う人もいるでしょう。けれども、それがあなた方の本当の姿だと気づかせ、神に背を向けている私たちに、悔い改めの実りを実らせようとされるのです。それにより、呪われざるを得ない強盗は私たちの方だったのだと示されます。それでも主は十字架に付けられるとき、二人の強盗と一緒に十字架につけられます(27:44)。この十字架の死の上に、今の私たちの礼拝があり、祈りの家・教会があるのです。 人を赦さず、信仰の実りを見せない私たちが、あのいちじくの木のように呪われて枯らされてしまうのではなく、主イエスが代わって、その呪いを引き受ける。それが、主イエスの十字架という歴史的な出来事として現わされた神の真実でした。神に信頼して、祈りをするときに初めて、私たちは実に自分の願いばかりが多く、自分自身の思いに反することは受け止められないでいる、人ひとりも赦せない者であることを知る。そのために主が来られたことを知る。そこに神への信仰が実るのではないでしょうか。祈る者たちが悔い改めの実りと共に帰ってくる家が、祈りの家であり、礼拝なのです。 そのままでは、呪われざるを得ない、枯らされざるを得ない私たちが、枯らされなくて済むように、主イエスは十字架へ向かわれるのです。罪なき方が、私たちの罪のために、自ら呪いを担って下さいました。呪われる筋合いのない主が、十字架の上で呪われ、死なれたのです。 

 この主イエスの姿を旧約の時代の預言者はこう語り伝えました。イザヤ書の「苦難の僕」と呼ばれる箇所です。「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいとされるために 彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ53:11)苦しみの末に、実りを見てくださった主は、それを知って満足された。私たちこそ、実りだと喜んでくださるお方なのです。