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2022年4月3日主日礼拝
「広がりゆくもの」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章29~39節

【ネットは <Youtube>】  主イエスのもとに、 「この地に生まれたカナンの女」 が 「娘が悪霊にひどく苦しめられています」 と言い、主イエスに助けを求めに来ました。主イエスの噂を聞きつけてやってきたのでしょう。しかし、主は 「何もお答えにならなかった」 。また女の求めに対して 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」 と拒否をしました。主イエスは、かつて神の救いの約束された、ユダヤの人々、イスラエルのため遣わされているのです。けれども、その人々にはなかなか理解されません。神に選ばれた救うべき民、イスラエルの民族。その者たちのために主イエスはこれまで教えと、癒しや奇跡の業を行いました。しかし全く受け止められませんでした。主イエスを見るのではなく「何をするのか」ということや、「奇跡を行う人」として人々は見ていました。   カナンの女にしてみれば、「助けてほしい」と言ったのに、しばらくの沈黙があり、黙っていたと思ったら、否定的なことを言われた。なぜ?と思うかもしれません。しかし、女はその覚悟はあったと思います。 「カナンの女」 だったからです。「異邦人」である自分のような者との交わりを持たないと理解しながらも、助けを求めに来ました。優れた者でも、褒められるような者でもない。けれども、「主よ、あなたの恵みは食卓からこぼれ落ちるほどに豊かにあります。そのおこぼれをください。」と諦めなかったのです。   主は  「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」 と言います。主イエスは大事なパンを、命のパンをあげたい人たちがいたのです。 「子供たち」 (ユダヤ人)を十分に満たすためにパンを、食事を、いのちの糧を守らなければならないでしょう。だからそれを取って小犬(ペット)にやるわけにはいかないのです。しかし女は 「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 と主に願い出ます。   私たちは日曜日に集まって礼拝をするのは、聖書を通して、礼拝を通して神の言葉を聞くこと、そのことを大切にしているからです。しかし、礼拝に来ても、どんなに祈っても、神の言葉が自分の祈りや求めに答えてもらえないような経験、助けを求めても、返事もしてもらえないようなことを経験する時があるのです。願いが否定されることもある。 主イエスに助けを求めても沈黙され

2022年3月27日主日礼拝
「立派な信仰」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章21~28節

【ネットは <Youtube>】   主イエスのもとに、 「この地に生まれたカナンの女」 が 「娘が悪霊にひどく苦しめられています」 と言い、主イエスに助けを求めに来ました。主イエスの噂を聞きつけてやってきたのでしょう。しかし、主は 「何もお答えにならなかった」 。また女の求めに対して 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」 と拒否をしました。  主イエスは、かつて神の救いの約束された、ユダヤの人々、イスラエルのため遣わされているのです。けれども、その人々にはなかなか理解されません。神に選ばれた救うべき民、イスラエルの民族。その者たちのために主イエスはこれまで教えと、癒しや奇跡の業を行いました。しかし、全く受け止められませんでした。主イエスを見るのではなく「何をするのか」ということや、「奇跡を行う人」として人々は見ていました。 カナンの女にしてみれば、「助けてほしい」と言ったのに、しばらくの沈黙があり、黙っていたと思ったら、否定的なことを言われた。なぜ?と思うかもしれません。しかし、女はその覚悟はあったと思います。 「カナンの女」 だったからです。「異邦人」である自分のような者との交わりを持たないと理解しながらも、助けを求めに来ました。優れた者でも、褒められるような者でもない。けれども、「主よ、あなたの恵みは食卓からこぼれ落ちるほどに豊かにあります。そのおこぼれをください。」と諦めなかったのです。   主は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言います。主イエスは大事なパンを、命のパンをあげたい人たちがいたのです。「子供たち」(ユダヤ人)を十分に満たすためにパンを、食事を、いのちの糧を守らなければならないでしょう。だからそれを取って小犬(ペット)にやるわけにはいかないのです。しかし女は「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と主に願い出ます。   私たちは日曜日に集まって礼拝をするのは、聖書を通して、礼拝を通して神の言葉を聞くこと、そのことを大切にしているからです。しかし、礼拝に来ても、どんなに祈っても、神の言葉が自分の祈りや求めに答えてもらえないような経験、助けを求めても、返事もしてもらえないようなことを経験する時があるのです。願いが否定されることもある。 主イエスに助けを求めても沈黙されるのです。長

2022年3月20日主日礼拝
「人を汚すもの」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章10~20節

【ネットは <Youtube>】  食べ物にゴミが紛れていたり、不衛生に感じる時、食べること、口に入れることに躊躇するかもしれません。以前友人が、買ってきた食事に髪の毛が入っていてひどく落ち込んでいました。私は友人に「大丈夫、人は外から入るもので汚れたりしないから」と話しました。その時は笑い話でしたけれど、今日の聖書は「それなら大丈夫。安心だ。」と言って、汚れを気にしなくて良いのではありません。人の内側から出てくるものこそ汚れていると主イエスは言っています。  15章1節からには、エルサレムからファリサイ派の人々と律法学者たちが、主イエスのもとへ来て、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」(15:2)と問いました。ファリサイ派や律法学者は、食事の前に手を洗うのは、衛生上の問題ではなく、宗教的な、信仰に関わることとして守ってきました。周囲には、異教徒、違った信仰の人々がいて、その人たちについて、汚れた生活をする者、交わってはいけない人々、と見ていました。ファリサイ派、律法学者は、神の民として相応しい、聖なる生活をしたいと努めていました。何か食べるときにも気を使い、自分たちとは違う習慣の中に出かけて行けば、そこは汚れているから手を洗い、清めたのです。  しかし、「あなたの弟子たち」と言われていますから、弟子について指摘しに来たと言うよりも、その指導者である主イエスに「あなたはなぜ言い伝えを破るのか?」と訴えたかったのでしょう。 旧約聖書のイザヤ書60章や61章などを見てみると、イスラエルの民は神に植えられたものだと語られています。ユダヤの民、イスラエルの民は他の民族とは違いイスラエルの民は、神が植えてくださった。それを簡単に誰もが抜くことはできない。必ず枝を伸ばして花を咲かせる。そういう確信が語られています。ファリサイ派の人々も同じでした。「私たちは神が選び、植えてくださったものだ」とはっきり自覚を持っていました。だからこそ聖書の教えを大切にし、聖書の言葉通りに生きようとしていました。  けれども主イエスは「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」とファリサイ派の人に向かって言いました。あなたたちは、天の父が植えたものではないと言うのです。 ある説教者はこのことについて「神が植え

2022年3月13日主日礼拝
「自分の十字架をとって」
焼山 満里子 先生
マタイによる福音書 10章34~39節

ライブ再配信はありません    大変ご無沙汰しておりしたので、お招きいただいて今日を楽しみにしておりました。今朝は、ご一緒に受難節の第二日曜日の礼拝を守れますことを感謝いたします。    今朝の御言葉「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)は、とても厳しい、難しい言葉です。主イエスと活動を共にしたペテロをはじめとする弟子たちさえも逃げてしまった十字架をわたしたちが負うことを求めます。主イエスが十字架で死なれたのは、人間の自己追及、罪の犠牲となり、人間の罪を贖うためでした。ですからその死は、悲惨な、残酷な孤独な死でした。わたしたちに担えるでしょうか?   また主イエスが地上に来られたのは家族の間に「剣をもたらす」ため(10:34)、家族を敵対させるためだと語ります。自分の命を大切にし、自分の家族を大切にする、人として当たり前のことを今朝の御言葉は、否定するのでしょうか?  主に対する愛と自分や家族への愛はどちらも同時に大切にすることはできないのでしょうか。今朝の御言葉はいろいろと考えさせられます。   実はイエスの弟子たちもこの御言葉をすぐには理解することができませんでした。この言葉は、マタイ16章24節以下で、主イエスがご自分の死を予告され「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(16:21)と語られた後にもう一度くりかえされます。イエスの十字架について聞いたペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22)と主イエスをいさめます。けれども福音を語れば、必ず反対する人はいる、だからといって、イエスは反対されないように、迫害を受けないようにこそこそ語ったり、逃げ隠れたりそんな及び腰な生き方へ後退しようとはなさらず、神の愛をときつづけ、十字架に向かわれました。   弟子たちは、自分の十字架を負って、従うように招かれるのですが、二度聞いていても、やはり苦しみや死がただただ恐ろしく逃げてしまいます。弟子たちは、自分の命を守ろうとして、十字架を前に逃げてしまいました。けれどもその弟子たちも、復活した主に出会い、イエスが伝える福音、神に従って生きることで人は本当の意味で生きるのだということを知り、はじめて殉教もいとわない生き方へと変えられていきます。   主イエスから与えられる命が本

2022年3月6日主日礼拝
「小さな行いの指針」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章1~9節

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