2022年3月20日主日礼拝
「人を汚すもの」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章10~20節

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 食べ物にゴミが紛れていたり、不衛生に感じる時、食べること、口に入れることに躊躇するかもしれません。以前友人が、買ってきた食事に髪の毛が入っていてひどく落ち込んでいました。私は友人に「大丈夫、人は外から入るもので汚れたりしないから」と話しました。その時は笑い話でしたけれど、今日の聖書は「それなら大丈夫。安心だ。」と言って、汚れを気にしなくて良いのではありません。人の内側から出てくるものこそ汚れていると主イエスは言っています。

 15章1節からには、エルサレムからファリサイ派の人々と律法学者たちが、主イエスのもとへ来て、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」(15:2)と問いました。ファリサイ派や律法学者は、食事の前に手を洗うのは、衛生上の問題ではなく、宗教的な、信仰に関わることとして守ってきました。周囲には、異教徒、違った信仰の人々がいて、その人たちについて、汚れた生活をする者、交わってはいけない人々、と見ていました。ファリサイ派、律法学者は、神の民として相応しい、聖なる生活をしたいと努めていました。何か食べるときにも気を使い、自分たちとは違う習慣の中に出かけて行けば、そこは汚れているから手を洗い、清めたのです。

 しかし、「あなたの弟子たち」と言われていますから、弟子について指摘しに来たと言うよりも、その指導者である主イエスに「あなたはなぜ言い伝えを破るのか?」と訴えたかったのでしょう。 旧約聖書のイザヤ書60章や61章などを見てみると、イスラエルの民は神に植えられたものだと語られています。ユダヤの民、イスラエルの民は他の民族とは違いイスラエルの民は、神が植えてくださった。それを簡単に誰もが抜くことはできない。必ず枝を伸ばして花を咲かせる。そういう確信が語られています。ファリサイ派の人々も同じでした。「私たちは神が選び、植えてくださったものだ」とはっきり自覚を持っていました。だからこそ聖書の教えを大切にし、聖書の言葉通りに生きようとしていました。

 けれども主イエスは「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」とファリサイ派の人に向かって言いました。あなたたちは、天の父が植えたものではないと言うのです。 ある説教者はこのことについて「神が植えてくださったから、あなた方の信仰は始まった。しかし、今の生き方は違う」と言います。今の生き方は、「神にせっかく植えていただいたのに、自分で引っこ抜き、もう一度自分で植え直した」そのような生き方をしているから、自分自身で神に植えられたものとしての生活を裏切っているのであり、主イエスはこのように指摘しているのだと解釈を示しています。

  信仰も、教会も、神が植えられたものです。けれども、私たちがいつの間にかそれを変えてしまっているということです。私たち一人ひとりが、神に植えられて生きているはずでした。しかしそれを自分で変えてしまっている。そういった危険があるのです。どんなに掟に詳しくても、どんなに教会の事柄に詳しくても、植えてくださった天の父を知らなければ、正しい歩みなどできない。だからファリサイ派の人々は、信仰に熱心のあまり、盲目になっているというのです。 

 私たちは、何か良くない状況が起きたとき、周りのその状況を変えてくださいと言ってみたり、何が原因かと考えたりするかもしれません。自分の周りにある事柄に目を向けます。清めの儀式であれば、周りが汚れているから、周りの環境によって自分に悪影響が起きるから、洗い流す。清める。それによって自らを清く保つ、よく生きるために世の中のものと区別をするということです。しかし、そうではなく、全ては人の心にあるものから始まっているのです。 あの人は汚れている。それに触れてしまったから手を洗う。自分とは違う人たちだ。そうやって手を洗う。

 しかし、主イエスはそのようにしませんでした。間違った生き方をしても、内から出る汚れに気が付かない私たちとの交わりを持っても、主イエスは決別せずに手を洗うことはしません。 主イエスが語る、「人の心から出てくる汚れ」は、人が汚れるに留まるものではありません。「悪意、殺意、姦淫…」これらは周りに影響を現わすものです。人との関係を崩すものです。具体的な罪を生むことへと繋がります。

  私たちの中に芽生える小さな思い。「嫌いだ」と思うこと。嘘、悪口、ねたみ。抑えることのできない感情です。人を傷つけ、神の思いに反する私たちの中の汚れの罪を、主イエスは深く見つめています。「敵を愛しなさい」と主イエスは教えられました(5:43)。自分自身が引き起こす日々の小さな争いは些細なことかもしれませんが、その延長に戦争があります。人の中から出てくるものによって、争いは引き起こされます。自分の周りに目を向けて、主イエスの言葉を受け止めたいと思います。 人の心から出る、罪の根源を、主イエスは全てご自分の身に引き受け、背負って、十字架の死への道を歩んで下さいました。主イエスの十字架によって私たちの罪が赦され、神の子とされて、神と共に新しく生きる者となる、その私たちの救いのために、主イエスの教えと、十字架があるのです。