2022年3月13日主日礼拝
「自分の十字架をとって」
焼山 満里子 先生
マタイによる福音書 10章34~39節

ライブ再配信はありません  


 大変ご無沙汰しておりしたので、お招きいただいて今日を楽しみにしておりました。今朝は、ご一緒に受難節の第二日曜日の礼拝を守れますことを感謝いたします。  

 今朝の御言葉「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)は、とても厳しい、難しい言葉です。主イエスと活動を共にしたペテロをはじめとする弟子たちさえも逃げてしまった十字架をわたしたちが負うことを求めます。主イエスが十字架で死なれたのは、人間の自己追及、罪の犠牲となり、人間の罪を贖うためでした。ですからその死は、悲惨な、残酷な孤独な死でした。わたしたちに担えるでしょうか? 
 また主イエスが地上に来られたのは家族の間に「剣をもたらす」ため(10:34)、家族を敵対させるためだと語ります。自分の命を大切にし、自分の家族を大切にする、人として当たり前のことを今朝の御言葉は、否定するのでしょうか?
 主に対する愛と自分や家族への愛はどちらも同時に大切にすることはできないのでしょうか。今朝の御言葉はいろいろと考えさせられます。

  実はイエスの弟子たちもこの御言葉をすぐには理解することができませんでした。この言葉は、マタイ16章24節以下で、主イエスがご自分の死を予告され「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(16:21)と語られた後にもう一度くりかえされます。イエスの十字架について聞いたペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22)と主イエスをいさめます。けれども福音を語れば、必ず反対する人はいる、だからといって、イエスは反対されないように、迫害を受けないようにこそこそ語ったり、逃げ隠れたりそんな及び腰な生き方へ後退しようとはなさらず、神の愛をときつづけ、十字架に向かわれました。

  弟子たちは、自分の十字架を負って、従うように招かれるのですが、二度聞いていても、やはり苦しみや死がただただ恐ろしく逃げてしまいます。弟子たちは、自分の命を守ろうとして、十字架を前に逃げてしまいました。けれどもその弟子たちも、復活した主に出会い、イエスが伝える福音、神に従って生きることで人は本当の意味で生きるのだということを知り、はじめて殉教もいとわない生き方へと変えられていきます。

  主イエスから与えられる命が本当の意味で人間らしい豊かな生き方であることが、本当にわかったとき弟子たちは主イエスに従って生きることができました。わたしたちが大切にし、時には固執してやまない、自分の命、家族への愛、努力して得た知識、自分が築いた世界、確保した地位、これらを守ろうとしていては、与えられた命をゆたかに十分に生きることはできない。イエス・キリストを信じて本当の命を得なさい、と今朝の御言葉は招いています。

   受難節の時にわたしたちを本当にとらえているのは、何か思いめぐらしたいと思います。わたしたちが第一に考えることは、自分のことでしょうか。苦しみと死を恐れ、自分の境遇を嘆き立ち止まるとき、わたしたちは復活の主の招きを聞きます。わたしたちが本当の意味で生きる道を求めなさいと招いています。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という今朝の御言葉は、十字架で死に復活されたイエス・キリストによって、わたしたちが本当に生かされるようになるのだから、イエス・キリストと共に歩むように招いています。

  わたしたちは今、世界情勢についても、国内の感染症の脅威についても、恐れをもって暮らしています。けれどもイエス・キリストの十字架と復活によって、神さまは、どんなときもわたしたちを生かしてくださる方であることを教えてくださいました。わたしたちが命をあたえてくださる主に従って歩むことができますように。苦しみと死に惑わされ、わたしたちが誰であるか、わたしたちは誰のものか、何のために生きているか、見失わないように、ひたすら主に従っていきることができますように。

  そして実際に主にお応えした時どうなるのか、今朝の箇所の最後に書いてあります。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。主イエスが十字架によってご自分の命を手放された、そして復活の命を得られることになった、そのようにわたしたちもイエスに従って生きるとき、失うようにみえて命を得るということ、そしてイエスの「軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(11:30と約束されています。願わくはわたしたちそれぞれが、主の御心を求めて、一日をすごすことができますように。これからのわたしたちの歩みが主と共に歩むものでありますように。