2022年3月27日主日礼拝
「立派な信仰」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 15章21~28節

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  主イエスのもとに、「この地に生まれたカナンの女」「娘が悪霊にひどく苦しめられています」と言い、主イエスに助けを求めに来ました。主イエスの噂を聞きつけてやってきたのでしょう。しかし、主は「何もお答えにならなかった」。また女の求めに対して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と拒否をしました。

 主イエスは、かつて神の救いの約束された、ユダヤの人々、イスラエルのため遣わされているのです。けれども、その人々にはなかなか理解されません。神に選ばれた救うべき民、イスラエルの民族。その者たちのために主イエスはこれまで教えと、癒しや奇跡の業を行いました。しかし、全く受け止められませんでした。主イエスを見るのではなく「何をするのか」ということや、「奇跡を行う人」として人々は見ていました。 カナンの女にしてみれば、「助けてほしい」と言ったのに、しばらくの沈黙があり、黙っていたと思ったら、否定的なことを言われた。なぜ?と思うかもしれません。しかし、女はその覚悟はあったと思います。「カナンの女」だったからです。「異邦人」である自分のような者との交わりを持たないと理解しながらも、助けを求めに来ました。優れた者でも、褒められるような者でもない。けれども、「主よ、あなたの恵みは食卓からこぼれ落ちるほどに豊かにあります。そのおこぼれをください。」と諦めなかったのです。 

 主は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言います。主イエスは大事なパンを、命のパンをあげたい人たちがいたのです。「子供たち」(ユダヤ人)を十分に満たすためにパンを、食事を、いのちの糧を守らなければならないでしょう。だからそれを取って小犬(ペット)にやるわけにはいかないのです。しかし女は「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と主に願い出ます。 

 私たちは日曜日に集まって礼拝をするのは、聖書を通して、礼拝を通して神の言葉を聞くこと、そのことを大切にしているからです。しかし、礼拝に来ても、どんなに祈っても、神の言葉が自分の祈りや求めに答えてもらえないような経験、助けを求めても、返事もしてもらえないようなことを経験する時があるのです。願いが否定されることもある。 主イエスに助けを求めても沈黙されるのです。長い沈黙のあとに、拒否されたのです。祈ったのに、こんなに願ったのに、願いは聞かれない。届いているのだろうか?と思うことがある。答えが得られないのです。では、病の娘を抱えたこの女はどうなるのでしょうか。女は望みを、希望を捨てることなく、厳しい状況に、つまずきませんでした。「主よ、ごもっともです」と言います。私はあなたの「子供」と呼ばれる資格はありません。カナンの女は、自分には助けていただく権利とか資格があると言うのではありません。そんな存在であるにも関わらず、あなたは「主よ、ダビデの子」と女は呼び、救い主である主イエスに信頼を寄せているのです。娘を心から愛し、まだ望みが叶わなくても、病が癒されていなくても、失望することなく、救いの恵みが豊かに注がれていることを望み見ているのです。  主はその姿を見て「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われます。 この人が何かしたから「立派だ」といったのではありません。娘への愛のためだとも書かれていません。女の祈り、叫びは、主に応えらずに、沈黙されたときも、拒否された中にあっても、主は正しい方であると信頼し続けていました。ただ信頼を寄せていた。そのことを主イエスは「立派だ」、「大きい信仰だ」(原文)と言われます。

  私たちの祈り、願いに対して沈黙されるときがあります。信仰の試練があります。救いを願っても、癒しを願っても、聞かれないと感じるとき、拒否されていると思うかもしれません。けれども、そうしたことに直面してもなお、神の恵みは注がれている。その信頼を持ちたいと思います。