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2022年2月27日主日礼拝
「安心しなさい」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 14章22~36節

【ネットは <Youtube>】  「湖の上を歩く」という記事はマルコとヨハネ福音書の中にも描かれていますが、マタイ福音書はペトロと主イエスとの出来事をより細かに伝えています。   漁師だった弟子たちが悩まされるような逆風の湖での出来事です。 「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」 。驚くべきことです。けれども私たちはあまり驚いてこの聖書を読むことがなくなってきているかもしれません。湖の上を歩くのは、アニメーションの中でしか起こらない事のようにどこかで思ったり、「そんなことが起こるわけがない」、「こんなところに主イエスが歩いてくるはずがない」という思いをどこかに抱いてしまうこともあるでしょう。けれども聖書は、私たちが疑いを捨てられないところにまで、主イエスが来てくださるのだと記しています。    「幽霊だ」 と弟子たちは言います。湖や海は悪魔のような力が働くと考えられました。荒れた湖は脅威であり人の命が奪われるところでもあるからです。しかしそれを自分の足元に置き、主イエスは静かに歩いて来られます。   人は、逆風の中、不安が襲い、立ち尽くすしかない出来事が起こるとき、恐れに襲われます。恐れや、やり場のない中にいると、神はいないのではないかと思ったり、いるのであれば、どこにいて、今何をしているのかと問いたくなるような思いを経験したり、そうした思いを聞いたりすることは少なくないと思います。彼らは主を見失っていました。おびえる弟子たちに、主イエスは 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」 と語ります。   ペトロは幽霊だと思ったものが、主イエスだとわかると、「主よ、助けてください」と言ってもいいところを「あなたの元へと歩けと命じてください」と言います。ペトロの姿はとても大胆であると思います。これはペトロの祈りであるとも思うのです。クリスチャンが神に捧げる祈りであると思いました。逆境の中、主イエスへと向かう歩みであり、祈りです。私たちは自分自身を守るために、神に「守ってください」、「私の正しさを証明してください」、「この大変な状況を変えてください」と祈りたくなることがあると思います。しかし、それは信仰がない人でもできる祈りです。教会ではクリスチャンになることを「救われる」と言います。だからと言って、順風満帆になるのではありません

2022年2月20日主日礼拝
「大きな喜びの作り方」
石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 14章13~21節

【ネットは <Youtube>】  5千人の食卓の奇跡は全ての福音書に収められている程に愛された箇所です。けれども、現代のわたし達にとっては聖書の言葉を信じることへの妨げにもなってしまう箇所でもあると思います。本当にこのような出来事があったのだろうか。こういう箇所があるからこそ、信じたくても信じられないという声もあります。どのように向き合えば良いのでしょう。これはフィクションだといって退けることも出来ます。あるいは、有り得る話といって、どうにか論証しようとする試みもあります。けれども、いずれも正しくはないと思います。わたしたちがすべき態度は、このような語り方を通して聖書は何を伝えようとしているのだろうか、と問いを持つことです。    「イエスはこれを聞くと…人里離れた所に退かれた」 と言って始まります。「洗礼者ヨハネの死」のことを聞いて主イエスは退かれたのです。そして、人々は、そのイエスの様子を聞き「歩いて後を追った」と言います。皆が皆、悲しかった。ヨハネに続いて主イエスも居なくなってしまうのではないか。いても立っても居られなかったのです。その人々を主イエスは迎え、憐れみ、癒やし、食事をしようと考えました。 弟子たちも思いは同じです。しかし、無理だと考えました。 「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」 。村まで出れば食べ物が買える。あるいは、どこかの農家でスープを分けてもらえるかも知れないと考えたのです。対して主イエスは 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」 と言われました。悲しみの時、悪い知らせを聞いたとき何を食べるかよりも誰と食べるか。誰と一緒か。主は彼らを一人にはしておけないと思ったのです。   弟子たちは顔を見合わせたことと思います。口を揃えて言います。 「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」 。明らかに不足なのです。すると、主イエスは 「それをここに持って来なさい」 と言い、祝福の祈りをし、パンを裂いて弟子たちに渡しました。新共同訳では 「賛美の祈り」 とされていますがユーロゲオ-という言葉です。人が神に向かってするとき 「賛美」 、神が人に向かって為さるとき「祝福」となる言葉です。主は祝福を求める祈りをされました。  そして、弟子

2022年2月13日主日礼拝
「人の目に縛られる」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 14章1~12節

【ネットは <Youtube>】  マタイ3章に登場した 「洗礼者ヨハネ」 が捕らえられていました。そのヨハネが領主ヘロデの誕生日の祝いの席で、ヘロデの指示によって首をはねられたのです。その時の出来事が回想シーンのように描かれています。 「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。『あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている』」 。ヘロデは主イエスの評判を聞き、「自分が殺したはずのヨハネが現れた」と思ったのでしょう。そして不安や恐れを抱いたのです。    「洗礼者ヨハネ」 とはユダヤの荒れ野で教えを宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と人々に悔い改めを説いていました(3:1-12)。ヨハネが捕らえられた理由は、 「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」 。   「領主ヘロデ」 は、マタイ福音書2章に出てきた「ヘロデ王」の息子でヘロデ・アンティパスという名です。ヘロデ王の死後、その領土は3人の息子たちによって分割統治されました。 領主ヘロデは、自分の兄弟から妻を奪い、自分の妻にしました。洗礼者ヨハネはヘロデに 「あの女と結婚することは律法で許されていない」 と批判をしました。ヨハネは、人々に悔い改めを求めていましたので、ヘロデの結婚についても、姦淫の罪に当るということを指摘していたのです。そのことで、ヘロデはヨハネを捕えて監禁したのです。その後、ヘロデの誕生日の祝いが開かれて、ヘロデとその妻へロディアの娘が、皆の前で踊りを踊りました。この娘は、妻ヘロディアと先の夫との間の娘で、聖書に名前は出てきませんが「サロメ」という名として伝えられています。若く美しい娘の踊りに、宴席は盛り上がり、ヘロデも喜びました。そして、ヘロデは娘に 「『願うものは何でもやろう』と誓って約束した」 。娘は 「母親に唆されて『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください』と言った」 。ヘロデは、自分には支配力があり、娘が願うものは何でも与えることが出来ると思っていました。そこにいた多くの人々が自分の言葉を聞いていた。皆が見ている。そのことが彼を縛り、不自由にさせ 「心を痛めた」 のに