2022年2月20日主日礼拝
「大きな喜びの作り方」
石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 14章13~21節

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 5千人の食卓の奇跡は全ての福音書に収められている程に愛された箇所です。けれども、現代のわたし達にとっては聖書の言葉を信じることへの妨げにもなってしまう箇所でもあると思います。本当にこのような出来事があったのだろうか。こういう箇所があるからこそ、信じたくても信じられないという声もあります。どのように向き合えば良いのでしょう。これはフィクションだといって退けることも出来ます。あるいは、有り得る話といって、どうにか論証しようとする試みもあります。けれども、いずれも正しくはないと思います。わたしたちがすべき態度は、このような語り方を通して聖書は何を伝えようとしているのだろうか、と問いを持つことです。 

 「イエスはこれを聞くと…人里離れた所に退かれた」と言って始まります。「洗礼者ヨハネの死」のことを聞いて主イエスは退かれたのです。そして、人々は、そのイエスの様子を聞き「歩いて後を追った」と言います。皆が皆、悲しかった。ヨハネに続いて主イエスも居なくなってしまうのではないか。いても立っても居られなかったのです。その人々を主イエスは迎え、憐れみ、癒やし、食事をしようと考えました。 弟子たちも思いは同じです。しかし、無理だと考えました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。村まで出れば食べ物が買える。あるいは、どこかの農家でスープを分けてもらえるかも知れないと考えたのです。対して主イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言われました。悲しみの時、悪い知らせを聞いたとき何を食べるかよりも誰と食べるか。誰と一緒か。主は彼らを一人にはしておけないと思ったのです。

  弟子たちは顔を見合わせたことと思います。口を揃えて言います。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」。明らかに不足なのです。すると、主イエスは「それをここに持って来なさい」と言い、祝福の祈りをし、パンを裂いて弟子たちに渡しました。新共同訳では「賛美の祈り」とされていますがユーロゲオ-という言葉です。人が神に向かってするとき「賛美」、神が人に向かって為さるとき「祝福」となる言葉です。主は祝福を求める祈りをされました。

 そして、弟子たちは受け取り、歩いて周り、人々に渡します。すると人々は満腹し、残りは12の籠一杯になったというのでうす。この時、パンと魚、どうやって配りきったのだろうかと思います。パンが増えたのか。そういうことは書いていません。もしも増えたというのなら、弟子たちは喜んで配りに行ったでしょう。しかし、増えてはいない。けれども、配ったら余ったのです。聖書は「女と子どもを別にして、男が5千人ほどであった」と言います。全員合わせれば1万人いたかも知れません。大勢が目の前に広がっています。手元には僅かな食べ物。配りに行くとき、弟子たちは主に言いたかったと思います。「主よ、無理です」。馬鹿にして笑う人たちもいたかも知れません。けれども、主イエスは「行け」と言う。弟子たちは信じるしかありませんでした。何を?誰を?主イエスです。彼らは信じました。信じて一歩踏み出したところに、この大きな奇跡は起こったのです。 反対に言えば、信じなければ、この出来事は無かったと言うことです。奇跡は信じる人の中に起こります。

 13章の終わりには故郷で奇跡を為さらなかったことが記されています。信じる人がいなかったからです。今日の出来事が語り伝えようとしていることは、大きな奇跡が起ころうとしているとき、神はわたしたちを用いるということです。弟子たちは主の奇跡の目撃者です。けれども、同時に、大漁の奇跡(ルカ5:4-)、水が葡萄酒に変わる奇跡(ヨハネ2:1-)にあるように、主はわたしたちを奇跡を運ぶ器として用いようとされるのです。 

 「エヴァン・オールマイティ」という映画の中に、こういう言葉があります。「何かが欲しいと言えば、神は、そのままくれるのかな。神に『忍耐を』と祈れば、神は魔法のように忍耐をくれるのか。それとも、忍耐が必要とするチャンスをくれるのか。もし『家族を一つに』と祈れば、神は温もりをくれるのか。それとも、愛し合うチャンスをくれるのか」。わたしたちは、○○さえあれば、できるのにと思います。大きな喜びをもたらすのは、有り余るほどのものが必要だ、とも。 

 弟子たちは大勢の人の食事の心配をしました。しかし、だからといって、主は沢山のパンを与えはしませんでした。信じて歩み出す機会・チャンスを与えました。今日の箇所には、「ここ」という言葉が繰り返し出てきます。これしかない「ここ」。けれども、主イエスが居られる「ここ」です。ここにはこれしかない、自分には出来ないという思いがあるとき、しかし、信じて主の前に、その小さな手を「ここ」に差し出すとき、主は祝福し、奇跡の器としてくださいます。信じるとき、いつも大きな奇跡は起こります。