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主日礼拝2021年11月28日
「見よ、神の選んだ僕」上野 峻一 先生
マタイによる福音書12章15~21節

[録音] [録画] Youtube  教会の暦(こよみ)、カレンダーでは、今日から新しい年を迎えます。また同時に、今日から主イエス・キリストの到来を待ち望むアドヴェント、待降節に入ったということです。アドヴェントの意味は、待望です。救い主を待ち望む、まさに、主イエス・キリストが来られるのを待ち望む意味です。これからクリスマスまでの4週間、主の到来をより深く待ち望む日々を過ごすのです。救い主の到来を待ち望むことは、聖書に記された人々もまた同じです。   旧約聖書の時代から、神の民イスラエルは繰り返し、迫害や困難の中を歩んできました。本日の聖書の箇所では、イザヤ書第42章1~4節が土台となる引用と言われます。つまり、マタイ福音書の著者が、旧約聖書に記された預言の成就として、主イエス・キリストを理解しているのです。主イエスの誕生は、預言者を通して、神さまが約束されていたことが実現したことを伝えます。そこには、旧約聖書から新約聖書へと続いている神さまの約束があり、初めから終わりまで、すべて主なる神さまの支配と導きにあることを私たちに伝えます。それは、私たちが生きる今、現在においても同じです。私たちの毎日は、この聖書に記された歴史の続きにあります。どのような状況であっても、決して私たちの歴史と聖書が切り離されたものではありません。旧約聖書、新約聖書、そして、現代として、今も繋がっている世界を生きているのです。   主イエスが立ち去られた後、大勢の群衆が従いました。主は、その人々の病気を癒やされ、 「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」 とあります。なぜ、主イエスは、御自分のことをいいふらさないようにと戒められたのでしょうか。その時、福音書記者が思い起こした旧約聖書の言葉、預言者が語られた御言葉がありました。 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた芦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」    「あなたにとって、イエスさまとは、どのような存在ですか?」この問いは、恐らく、当時、主イエスに出会った人たち、また福音書を記した人たちが、繰り返し問い続けた大事な問いでもあり

主日礼拝2021年11月21日
「愛する者が目の前にいる」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章9~14節

[録音] [録画] Youtube  12章1-8節と9-14節は 「安息日」 がテーマです。主イエスは礼拝するため 「会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。」 。 「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」 。片手の萎えた人を癒すかどうかをめぐる問題でした。 目の前に困っている人がいたら、手を差し伸べる。助けるのは当然ではないか、と思うでしょう。 しかしここで言われているのは、癒すのか、それとも放っておくのか?ではなく、癒しの行為を 「安息日」 にやるのか?と問われています。優先順位が問題とされていました。 「安息日」 にすべての医療行為が禁じられていたのではなく、命に関わることならば癒しても良いのです。 しかし、片手の萎えた人は、すぐに治さなくても命に関わりません。労働から自由にされたことを記念し守る「これを聖別せよ」と神が言われる日に、働く手を休めないのかと問われています。つまり、今やらなくても良いだろう。明日でも変わらないだろうと。 片手の萎えた人にも言えば充分わかったでしょう。「私は癒す力がある。けれども今日は安息日だから、明日も一度会おう。明日あなたを癒します。」そう伝えれば、喜んで家に帰り明日を待ったでしょう。 けれども主イエスは言います。 「だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」 。目の前で自分の羊が穴に落ちた。怪我していないか、何より心細いだろう。「でも死ぬわけじゃない。今日は安息日だから、明日迎えに来るよ」そんなこと言えるのかと問われます。ましてや、 「人間は羊よりもはるかに大切なものだ」 と言うのです。   主は、言います。 「手を伸ばしなさい」 。 「伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった」 。長い間、伸ばすことができなかった手を人々の前で伸ばさなければならないのは、不安や緊張を持つと思います。私たちも、初めてやること、長い間できなかったことをやらなければならない時、勇気が要ります。しかし、この人は主の言葉に従い、伸ばしてみるのです。他の人がやるのと同じようにはできないかもしれない。思っていたのとは違ったかもしれない。それでも言われた通り伸ばしてみるのです。それは大きなチャレンジです。やってごらんと言われても、「どうせ私にはできない」と思

主日礼拝2021年11月14日
「大事にするあまり、間違っていない?」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章1~8節 

[録音] [録画] Youtube  こどもさんびかの言葉に「安息の日よ」とありました。神さまを礼拝する日です。一週間の七日間の七という数字は、神さまが世界を創造し、七日目に世界は完成された。そして神さまは休まれた。安息なさったことから七日間の区切りがあります。 その安息日である、神様を礼拝する日のことで、イエスさまとファリサイ派と言われる宗教家がもめていました。   「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」 。それを見ていた人にイエスさまたちは、「安息日にしてはならないことをしている」と言われました。旧約聖書の十戒を大事に守っていた人々。その第四戒、「安息日を守り、これを聖別せよ」とあり、神様との約束の日は仕事をしてはいけませんでした。したいこと、しなくてはいけないことを中断して、神さまの前に立つ。それが人にとって、生きることにとって、無くてはならない大事なことだからです。ユダヤの人々はこれを徹底して守っていました。大事な日だから「あれはやってはいけない。これもやらない。」と。 すると、守れてない人が気になるのです。なんで同じようにしないんだろう?どうしてわかってないのかな?と思ったり、嫌な気分、冷たい視線になる事があります。 だから、安息日に麦畑を歩いていた主イエスの弟子たちが、麦の穂をつんで食べた。そのことを見逃さなかったのです。  畑のものを取って食べたことは注意されていません。隣人の畑に入る時は、手で穂を摘んでも良いと聖書に書いてあります(申命記23:25—26)。畑を前にして、人が飢え死にするようなことが無いようにと、聖書に書かれた律法は人に優しいものだと思います。では何を指摘されたのか。麦を摘み、手でもんで殻を外した。そのことが、「収穫」であり「労働」だと言うのです。休みの日の法律を破り、労働したことになる。   弟子たちは思ったでしょう。しまった、やってしまったと。お腹が空いたからつい、取って、食べただけなのに、と。 労働を休むことで思い起こすのは、イスラエル人々が奴隷であり、休みなく扱われていた、エジプトでの生活から解放されたこと。人間らしく、疲れたら休息をとることができる、奴隷からの救いの出来事を記念するはずのものです。もう労働から身を守ることができるはずの休息が、今弟子たちを苦しめ