主日礼拝2021年11月14日
「大事にするあまり、間違っていない?」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章1~8節 

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 こどもさんびかの言葉に「安息の日よ」とありました。神さまを礼拝する日です。一週間の七日間の七という数字は、神さまが世界を創造し、七日目に世界は完成された。そして神さまは休まれた。安息なさったことから七日間の区切りがあります。 その安息日である、神様を礼拝する日のことで、イエスさまとファリサイ派と言われる宗教家がもめていました。

 「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」。それを見ていた人にイエスさまたちは、「安息日にしてはならないことをしている」と言われました。旧約聖書の十戒を大事に守っていた人々。その第四戒、「安息日を守り、これを聖別せよ」とあり、神様との約束の日は仕事をしてはいけませんでした。したいこと、しなくてはいけないことを中断して、神さまの前に立つ。それが人にとって、生きることにとって、無くてはならない大事なことだからです。ユダヤの人々はこれを徹底して守っていました。大事な日だから「あれはやってはいけない。これもやらない。」と。 すると、守れてない人が気になるのです。なんで同じようにしないんだろう?どうしてわかってないのかな?と思ったり、嫌な気分、冷たい視線になる事があります。 だから、安息日に麦畑を歩いていた主イエスの弟子たちが、麦の穂をつんで食べた。そのことを見逃さなかったのです。

 畑のものを取って食べたことは注意されていません。隣人の畑に入る時は、手で穂を摘んでも良いと聖書に書いてあります(申命記23:25—26)。畑を前にして、人が飢え死にするようなことが無いようにと、聖書に書かれた律法は人に優しいものだと思います。では何を指摘されたのか。麦を摘み、手でもんで殻を外した。そのことが、「収穫」であり「労働」だと言うのです。休みの日の法律を破り、労働したことになる。

  弟子たちは思ったでしょう。しまった、やってしまったと。お腹が空いたからつい、取って、食べただけなのに、と。 労働を休むことで思い起こすのは、イスラエル人々が奴隷であり、休みなく扱われていた、エジプトでの生活から解放されたこと。人間らしく、疲れたら休息をとることができる、奴隷からの救いの出来事を記念するはずのものです。もう労働から身を守ることができるはずの休息が、今弟子たちを苦しめています。 イエスさまは、ファリサイ派に指摘されたことへの弁護に、安息日の例外のケースをあげて弁明し始めました。

 こんな些細なつまみ食いをきっかけに、大げさな弁明をされたイエスさま。私たちは自分が指摘された失敗に「もういい」と諦めや、「自分が謝れば良いんだ」と思うかもしれません。でも、神さま、イエスさまにとっては、「聖書の言葉によって、あなたが追いやられるようなことがあってはいけない」と全力で守っているのです。 神さまは世界を造り、人を造られました。「わたしが造った大切なあなただから、いじめられるようなことがあってはいけない」。「わたしが造った、大切な子どもたちだ」と、神さまは、人々を、そして教会に来る子どもたちのことを見ている方です。だから守りたいのです。

  弟子たちに「駄目だよ!」と言って注意をした人。神さまとの約束の日を守るために一生懸命だった人。厳しい、冷たい目になってしまった人にことは神さまはどう見ているのでしょう? イエスさまが一生懸命に話している相手は「あなた」です。安息日に、神様のために警戒して、目を光らせて、やってはいけないことをしている人がいないか、つい厳しくなってしまう「あなた」。「あなたも、今日は神さまを一緒に見上げましょう」。そうイエスさまは言っているのです。 主イエスさまは、弟子たちが従う良い子だから、守られるのではありません。歩きながら麦の穂をつまみ食いしてしまうだけの大人です。ファリサイ派の人々のように「いけないんだ!」と指さした人たちにも、「もっとこうしなさい」とか「立派になりなさい」とも言われません。

 イエスさまは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言う言葉の意味を知っているか?と言います。それは、「神殿よりも偉大なもの」であるイエスさまが教えてくださる、神さまの「憐れみ」に気づいて欲しいと私たちに語り掛けてくれているのです。私たちは、神の憐れみのなかにあって、神の前に立つことができるし、真の安らぎを得ることができるのです。立派になって来いと言うのではありません。お腹が空いている時、目の前に食べ物があったら、分けてもらうことができる。厳しい目で人を裁くことに一生懸命の私たちに、神さまを見つめることを思い出させてくださいます。 神さまとの約束の日、安息日。様々な仕事をやめてもいいんだと思い出す日。そして私たちは神さまによってすべてが満ち足りていることを思い起こす日です。