主日礼拝2021年11月21日
「愛する者が目の前にいる」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書12章9~14節

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 12章1-8節と9-14節は「安息日」がテーマです。主イエスは礼拝するため「会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。」「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。片手の萎えた人を癒すかどうかをめぐる問題でした。 目の前に困っている人がいたら、手を差し伸べる。助けるのは当然ではないか、と思うでしょう。 しかしここで言われているのは、癒すのか、それとも放っておくのか?ではなく、癒しの行為を「安息日」にやるのか?と問われています。優先順位が問題とされていました。 「安息日」にすべての医療行為が禁じられていたのではなく、命に関わることならば癒しても良いのです。 しかし、片手の萎えた人は、すぐに治さなくても命に関わりません。労働から自由にされたことを記念し守る「これを聖別せよ」と神が言われる日に、働く手を休めないのかと問われています。つまり、今やらなくても良いだろう。明日でも変わらないだろうと。 片手の萎えた人にも言えば充分わかったでしょう。「私は癒す力がある。けれども今日は安息日だから、明日も一度会おう。明日あなたを癒します。」そう伝えれば、喜んで家に帰り明日を待ったでしょう。 けれども主イエスは言います。「だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。目の前で自分の羊が穴に落ちた。怪我していないか、何より心細いだろう。「でも死ぬわけじゃない。今日は安息日だから、明日迎えに来るよ」そんなこと言えるのかと問われます。ましてや、「人間は羊よりもはるかに大切なものだ」と言うのです。 

 主は、言います。「手を伸ばしなさい」「伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった」。長い間、伸ばすことができなかった手を人々の前で伸ばさなければならないのは、不安や緊張を持つと思います。私たちも、初めてやること、長い間できなかったことをやらなければならない時、勇気が要ります。しかし、この人は主の言葉に従い、伸ばしてみるのです。他の人がやるのと同じようにはできないかもしれない。思っていたのとは違ったかもしれない。それでも言われた通り伸ばしてみるのです。それは大きなチャレンジです。やってごらんと言われても、「どうせ私にはできない」と思うこと、恥をかきたくない事は断るもできます。今まで動かなかったのだ。何度もチャレンジしようとして、できなかったのだから、できるはずがないと、嫌にもなるでしょう。しかし、言われてやってみなければ、わからないのです。そして、この人の手は動き出しました。 

  主は、やりなさい、伸ばしなさい、とだけ言います。会堂にいた全ての人がこの言葉を聞いていたことでしょう。私たちは、自分自身の勇気を絞って手を伸ばす時があります。周りの人のために、手を伸ばす時もあると思います。何が変わるのかわからない中で、できるのかわからない中で頑張ってみようと思うのは「主のお言葉だから」です。「神の喜ばれる歩みをしたい」その現れです。それは同時に自分の思いと、考えを捨ててみることです。 

  人々は、片手が萎えた人の回復を喜ぶのではなく、主イエスを殺す計画を始めます。礼拝が行われる場所で、そのような相談が始まるのです。 自分の正しさと、主イエスの行いが違ったから、消してしまいたいのです。ファリサイ派の人々は、完全に「安息日」を見失っていました。礼拝の場所で神を見ないで殺意を抱いているのです。「いかなる仕事もしてはならない」という律法にだけ心奪われ、囚われていました。 主イエスはファリサイ派の人々にこそ、「安息日」を取り戻してほしいと願い、挑発にも答えるのです。 

 手が萎えてしまい、固くなり、伸ばすことができないでいるのは病を抱えた人だけではありません。 このファリサイ派の人たちこそ、心が固くなり、目の前の人に手を伸ばすことができなくなってしまっているのです。主イエスはその人たちを責めるのではなくその場から追い出すのでもありません。手を伸ばすことのできないもののために、どのようにすべきなのか語り掛け教えてくださいます。それでも主イエスを殺害しようと追いやる者のために、十字架へと向かわれるのです。頑なな心を抱え、神を見上げることを忘れてしまう私たちに変わり、主イエスが神の方へと、この地から手を伸ばして下さったのです。私たちと神との関係を回復するために主イエスは十字架を背負ってくださいました。

 「穴」に落ちているのは私たちです。「穴」に落ちているのも気が付いていない私たちの方へと、主イエスは手を伸ばしています。