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礼拝説教10月25日

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「神は、その場所を選ばれた」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書4章12ー17節  向河原教会は伝道開始69年です。これから70年目の歩みを始めます。昨年の今頃は水害で大変でした。10月12日の台風19号。翌日が日曜日であったので礼拝できるかどうか心配しながら過ごした事を思い出します。翌朝は皆で泥かきをし、本当に休むように、皆が皆泥だらけのまま礼拝をしました。その翌週が創立記念礼拝。その時は、向河原教会の創設者たちが今の姿を見たら、どう思うか。困難を祈りながら乗り越えようとしている姿は頼もしいと映るのではないか、という話をしました。けれども、今回改めて「向河原教会30年史」を振り返ってみると創設者たちは気概があるなと思わされました。  ところで、もしもわたしたちが伝道を開始するとなれば、どこに場所を定めるでしょうか。東京や横浜か。パウロはいつも都市が拠点でした。他方、主イエスはエルサレムでもアテネでもなくガリラヤ地方をお選びになりました。 「異邦人のガリラヤ」 と呼ばれていた土地。神を忘れた人々の土地。良いものは何もでない土地です。なぜか。短く理由が書かれています。 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」 (洗礼者ヨハネ幽閉については14章)。彼の活動、言葉を良く思わないヘロデに捕らえられました。それを知って主は 「ガリラヤに退かれた」 のです。そう聞くと、表舞台で伝道していると自分も捕らえられてしまうから 「退かれた」 というように聞こえますが違います。ヘロデが領主として治めていた地域こそ、ガリラヤでした。主はむしろヘロデのいる所へ向かったのです。その理由は詳しくはありませんが、いずれにせよ、主は異邦人のガリラヤで伝道を開始されました。そして、それが 「死の陰に住む者に光が射し込んだ」 というイザヤ書で言われていたことの実現と重なったわけです。  向河原教会も、向河原周辺の子どもたちに 「なんとかキリストの言葉を、この子たちの心に刻み込んでいきたい」 という祈りから始まりました。しかし、教会設立まで大変な道のりがあったと伺っています。それなのに、どうして向河原という場所にこだわったのか。言葉が残されています。 「御言葉が、平和が、世界へ繋がる、その出発点として、また、現在の暗い世相を照らす場所、平安の場所として教

礼拝説教10月18日

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「あなたの隣人は誰か」 岩住 明日香 神学生 ルカによる福音書10章25-37節 本日の物語は、イエス様と弟子たちが話しをしている状況の中で、ある律法の専門家が立ち上がり、イエス様に質問を投げかけるということから始まります。そのやりとりの中でイエス様は彼に対して、「律法には何と書いてあるか。」ということともう一つ、「あなたはそれをどう読んでいるか。」ということを同時に問われました。この二つ目の質問では、あなたは神様の言葉をどのように受け止め、またそれによってどのように変えられて生きているかということが問われています。けれども彼は、二つ目の問いに対して答えることができませんでした。彼は、律法には何と書かれているのか分かっていました。だけど、それを実行することが出来ていなかったのです。彼は、イエス様から「あなたは律法をどう読んでいるかと」反対に問われてしまったとき、毎日唱えていた律法を守ることの出来ていない自分の姿に気がついたのだと思います。けれども、彼はそこで改めて素直に神様の言葉に聞き従い直すということをせず、自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエス様に再び問いを投げかけることを始めるのでした。 彼が放った、「では、私の隣人とはだれですか」というこの言葉は、隣人を限定する言葉です。私の愛すべき人、もしくは私の愛に値する人は誰ですか。というような言葉であると思います。しかし反対に、私が愛さなくてもいい人というのが想定されてしまう言葉でもあります。そのように自分を正当化し、「わたしの隣人とはだれか」と隣人探しを始めた彼に対して、イエス様はこの有名な「善いサマリア人」のたとえ話を語られました。このたとえ話しを通してイエス様が彼に伝えたいことは、隣人とは、自分で探すものではなく、自分が誰かの隣人になるものだということです。 追いはぎに襲われた人の隣人となったサマリア人も、自分の隣人となるべき人を探していたわけではありませんでした。彼はただ旅をしていた、その道の途中に今まさに助けを必要としている人がいるのを見て憐れに思い、そのとき持っていたもので手当てをし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って介抱しました。自分が通りすぎて行ったらこの人は死

礼拝説教10月11日

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「誘惑の時」 小松 美樹 伝道師 マタイによる福音書4章1ー11節  先週に引き続き、マタイによる福音書4章を読みました。主イエスが神の国について証しする、公の宣教活動を始める前のことです。荒れ野で40日の断食をした後に誘惑するものがやってきました。食べるものがなく、空腹の時というのは、人の最も苦しく、弱い時ではないかと思います。その弱さに誘惑するものがやって来ます。  主イエスの受けた誘惑は私たちの生活にはあまり関わりのないもののように思うかもしれません。今の私にとって、石をパンに変えるとか、飛び降りてごらんなさいなどは誘惑ではないように思います。神の子である主イエスだから試みられるのであり、救い主・リーダーとしてふさわしいかというテストのようなものだとか、主イエスが40日の断食をして、私たちと同じように、空腹の苦しみを味わうことや、弱さを覚える、苦しさも人と同じように経験してくれたのだと、そのように思っていました。この聖書を「私たちの事柄」として受け止めていませんでした。  けれども先週の石丸先生のこの箇所についての話では、誘惑を受けることはアイデンティティーに関わることなのだと言っていました。なるほどと思いました。主イエスは力ある存在です。だから自分のためにその力を使ってみろと誘惑を受けました。しかし、自分のためでなく、その力は人々を救うためにだけに使うことを貫きました。私たちに言い換えれば「この責任があるから、こういう行動はしない」そういうアイデンティティーの現われです。  誘惑は、そのアイデンティティーに反することなので、人には言えないものばかりだと思います。例えば、空腹ではなくても、大人たちがスーパーで食べ物を万引きする事例は数多くあります。不倫や汚職で取り沙汰されるのは表に見えるほんの一部です。いくつになっても、人のものが羨ましく見え、欲しくなってしまう。手に入れたくて我慢できなくなってしまう。そうして妬む思いに駆られます。他人のものを手に入れたい思いでいっぱいになることや、自分に都合の悪いことは見て見ぬ振りをする。弱いものを制するため、いじめる。その内容は人によって違い、多岐にわたります。誘惑は、私たちの内側を蝕んでゆき、虚しさを大きくしていく。やがて、それは私たちを滅びに向かわせるも

礼拝説教10月4日

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「キリストの闘い方」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書4章1ー11節 主イエスが悪魔から誘惑を3度受けられたという箇所を読みました。「誘惑」という言葉は時に「試み」とも訳出されます。主の祈りを思い出します。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。どんなことをイメージしながら祈っているでしょうか。 今日、主イエスは、あえて悪魔の誘惑を受けられたと聖書はいいます。 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 。なぜか。いよいよ主イエスの伝道、救い主として真の神を指し示す旅が始まるからです。主は、その前にご自身がどのような救い主であるかテスト(誘惑)を受けに行かれたのです。なので、この誘惑は真の救い主イエスだけが受けなければならない悪魔の誘惑です。しかし、同時に、主がわたしたちと歩みを共にしてくださる方だということを思うと別の視点が見えてきます。つまり、地上での誘惑は危険で有り、だからこそ、わたしたちが武具も持たずに誘惑を受けることがなくて済むよう先立って受け、すべての誘惑に勝ってくださった。しかも、主イエス特有の知恵や神の力ではなく、わたしたちの手元にある聖書の言葉で闘ってくださった。それが、この箇所に記していることです。  誘惑って何か。ある人は 「鳥が飛んできて、あなたの頭の上に止まるのはどうしようもない。しかし、頭の上に巣を作らせてはいけない」 と言いました。誘惑のことを言っています。ときどき悪い考えがどこからともなくやってきます。ふっと頭に浮かぶというのでしょうか。そのとき早く振りほどきなさい、住み始めるからです。つまり、問題なのは悪い考えそれ自体ではなく「その後」、自分がどうするかということです。主イエスは悪魔の言葉に耳を貸さずに断りました。誘惑とは遭わなければ良いのか?いや、大事なのは「その後」あなたがどうするかだと言うわけです。  誘惑って何か。生徒たちにも聞いたことがあります。次々に出てきます。柿ピー、チョコ、スマホ、推しのガチャ。これは、つい止まらなくなるものだそうです。気がついたら全部食べている。あるいは時間が過ぎている。他にも夜のカップ麺、試験前のベッドが誘惑してくる、と。それで聞きました。ベッドは悪