礼拝説教10月18日



「あなたの隣人は誰か」 岩住 明日香 神学生
ルカによる福音書10章25-37節

本日の物語は、イエス様と弟子たちが話しをしている状況の中で、ある律法の専門家が立ち上がり、イエス様に質問を投げかけるということから始まります。そのやりとりの中でイエス様は彼に対して、「律法には何と書いてあるか。」ということともう一つ、「あなたはそれをどう読んでいるか。」ということを同時に問われました。この二つ目の質問では、あなたは神様の言葉をどのように受け止め、またそれによってどのように変えられて生きているかということが問われています。けれども彼は、二つ目の問いに対して答えることができませんでした。彼は、律法には何と書かれているのか分かっていました。だけど、それを実行することが出来ていなかったのです。彼は、イエス様から「あなたは律法をどう読んでいるかと」反対に問われてしまったとき、毎日唱えていた律法を守ることの出来ていない自分の姿に気がついたのだと思います。けれども、彼はそこで改めて素直に神様の言葉に聞き従い直すということをせず、自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエス様に再び問いを投げかけることを始めるのでした。 彼が放った、「では、私の隣人とはだれですか」というこの言葉は、隣人を限定する言葉です。私の愛すべき人、もしくは私の愛に値する人は誰ですか。というような言葉であると思います。しかし反対に、私が愛さなくてもいい人というのが想定されてしまう言葉でもあります。そのように自分を正当化し、「わたしの隣人とはだれか」と隣人探しを始めた彼に対して、イエス様はこの有名な「善いサマリア人」のたとえ話を語られました。このたとえ話しを通してイエス様が彼に伝えたいことは、隣人とは、自分で探すものではなく、自分が誰かの隣人になるものだということです。 追いはぎに襲われた人の隣人となったサマリア人も、自分の隣人となるべき人を探していたわけではありませんでした。彼はただ旅をしていた、その道の途中に今まさに助けを必要としている人がいるのを見て憐れに思い、そのとき持っていたもので手当てをし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って介抱しました。自分が通りすぎて行ったらこの人は死んでしまうかもしれない。そう思って彼は目の前で瀕死の状態で倒れている人のもとに自ら近寄りその人を助けたのです。 私たちはこのたとえ話を通して、私たちの救い主であるイエス様のお姿とこのサマリア人の姿を重ねて見ることが出来るように思います。助けてくださるのがイエス様なら、助けられたのは私たちです。つまり倒れていた人は私たちなのです。イエス様は、私たちに憐れみの眼差しを向けてくださいました。神様の言葉に従えず、自分自身を正当化し、愛に破れてしまっている私たちのもとにイエス様は来てくださり、ご自分の命を捨てて十字架にまでかかってくださった。それは、愛することに破れ、また疲れを覚え、傷ついた私たちを救い出し、代わりに愛を完成してくださるためです。それだけでなく復活されて永遠の命に至る道を再び私たちの前に切り開いてくださるために、イエス様は人間となってまで私たちのもとに来てくださいました。このお方が、真のサマリア人となられ私たちの隣人となってくださいました。そして最後にこう言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」これは、私たちに向けて語られている言葉です。私たちは、「行け」と言われるその歩みを一人で始めるのではありません。私たちの隣人となってくださったイエス様と共に、またこの方にお従いして、私たちは新しくその歩みを始めることが出来るのです。このみ言葉は、私と一緒に、神様の言葉に従って生きる歩みを始めよ、とイエス様がその祝福の歩みの中へと私たちを招いてくださっている言葉です。けれども、私たちはこの招きに従って進む歩みの中で、ときに迷うことがあるかもしれません。また正当化する自分に戻ることだってあるかもしれない。しかし、イエス様は私たちに何度でもくり返し語りかけてくださいます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」と。聖霊を通して語りかけられるこのイエス様の言葉によって、私たちは悔い改めて、何度でも立ち直っていくことが出来るのです。そのように、私たちがみ言葉によって立ち直ることの出来る勇気すらも、イエス様は聖霊を通して私たちに与えてくださいます。だから、このみ言葉に励まされ、また信頼して、私たちは歩んでいけるのです。私たちの隣人となってくださった主はこう言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」あなたのその