礼拝説教10月4日



「キリストの闘い方」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書4章1ー11節

主イエスが悪魔から誘惑を3度受けられたという箇所を読みました。「誘惑」という言葉は時に「試み」とも訳出されます。主の祈りを思い出します。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。どんなことをイメージしながら祈っているでしょうか。

今日、主イエスは、あえて悪魔の誘惑を受けられたと聖書はいいます。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。なぜか。いよいよ主イエスの伝道、救い主として真の神を指し示す旅が始まるからです。主は、その前にご自身がどのような救い主であるかテスト(誘惑)を受けに行かれたのです。なので、この誘惑は真の救い主イエスだけが受けなければならない悪魔の誘惑です。しかし、同時に、主がわたしたちと歩みを共にしてくださる方だということを思うと別の視点が見えてきます。つまり、地上での誘惑は危険で有り、だからこそ、わたしたちが武具も持たずに誘惑を受けることがなくて済むよう先立って受け、すべての誘惑に勝ってくださった。しかも、主イエス特有の知恵や神の力ではなく、わたしたちの手元にある聖書の言葉で闘ってくださった。それが、この箇所に記していることです。

 誘惑って何か。ある人は「鳥が飛んできて、あなたの頭の上に止まるのはどうしようもない。しかし、頭の上に巣を作らせてはいけない」と言いました。誘惑のことを言っています。ときどき悪い考えがどこからともなくやってきます。ふっと頭に浮かぶというのでしょうか。そのとき早く振りほどきなさい、住み始めるからです。つまり、問題なのは悪い考えそれ自体ではなく「その後」、自分がどうするかということです。主イエスは悪魔の言葉に耳を貸さずに断りました。誘惑とは遭わなければ良いのか?いや、大事なのは「その後」あなたがどうするかだと言うわけです。

 誘惑って何か。生徒たちにも聞いたことがあります。次々に出てきます。柿ピー、チョコ、スマホ、推しのガチャ。これは、つい止まらなくなるものだそうです。気がついたら全部食べている。あるいは時間が過ぎている。他にも夜のカップ麺、試験前のベッドが誘惑してくる、と。それで聞きました。ベッドは悪?柿ピーは罪深いの?生徒は答えます。悪くない。悪いのは自分。誘惑は自分の中にある。なるほどと思いました。そして、こう続けました。あなたたちの挙げた誘惑、わたしにとっては平気なのだけれども、どうして?すると言われました。誘惑は一人ひとり違うんだよ。先生には先生の誘惑があるの、と。良く分かると思います。誘惑というものは一人でウロウロしているのではない。誘惑の源はその人自身にある。そうであれば「試みに遭わせないでください」という祈りは、その誘惑に負けず、主よ、あなたの言葉で守ってくださいという祈りになるのだと思います。そして、先生には先生の誘惑が、と言ったとおり、誘惑とは自分が誰であるかという点と結びついています。自分のアイデンティティ、自分の使命。そこから引き離すのが悪魔の誘惑です。

 主イエスには救い主というアイデンティティと神を指し示すという使命がありました。だからこその誘惑です。「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」。主イエスは空腹でした。そして石をパンに代える力もお持ちでした。それでお腹を満たすことが出来ました。しかし、主はその申し出を断ります。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。これを読んだときに生徒に言われました。これのどこが誘惑なの?と。しかし、主イエスは、その力を自分のために使いたくなかった、石をパンに代える救い主にはなりたくなかったのだと思います。人は困ればパンを求めます。そしてパンを得れば満たされます。しかし、人はパンを代表とする衣食住が満たされれば、それで良いのか。神に与えられた使命、自分の命の使い方が一人ひとりにあります。それは「神の口から出る一つ一つの言葉」に養われて初めて健全に生きることが出来ます。

先ほど、誘惑とはアイデンティティに結びついていると言いましたが、反対に言えば、自分が一体誰なのか分からないという人にとって誘惑はありません。けれども、自分は良き人間です。自分は母です、夫です、キリスト者です。あの子たちを守る者です、という名を持ち、使命を持って神の前に立つとき、自分が誰であり誰ではないか見えてきます。そして、それに対する誘惑も際立ってきます。

そして、誘惑は自分の使命から引き離すばかりではありません。悪魔のようにあの手この手で雁字搦めにもしてきます。わたしたちは自分はこの子の母親だ。良き祖父だ。自分はここのリーダーだ。そう言って立ち上がることがあります。すると、どこから聞こえてきます。「あなたは○○なのだからしっかりしろ」。「それでは○○失格だ」。どこからか。自分の中からです。これも誘惑です。自分自身も誘惑する者になります。しかも一番苦しい仕方で。

自分の使命や自分が一体誰であるのか、それを知って生きる人は幸いです。けれども、そのとき、自分の言葉だけ、周りの人の言葉だけ食べていると、雁字搦めになっていきます。聖書は、人が使命を持って造り主の思いに向かって生きることを良しとしていますが、その使命を全うしろとか、完璧に成せとは言っていません。しかし、それを忘れ、時にキチンとしないと駄目だと思ってしまう。だからこそ「神の言葉からでる一つ一つの言葉で生きる」ことが必要です。聖書の言葉はわたしたちを守ります。