礼拝説教10月11日



「誘惑の時」 小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書4章1ー11節

 先週に引き続き、マタイによる福音書4章を読みました。主イエスが神の国について証しする、公の宣教活動を始める前のことです。荒れ野で40日の断食をした後に誘惑するものがやってきました。食べるものがなく、空腹の時というのは、人の最も苦しく、弱い時ではないかと思います。その弱さに誘惑するものがやって来ます。
 主イエスの受けた誘惑は私たちの生活にはあまり関わりのないもののように思うかもしれません。今の私にとって、石をパンに変えるとか、飛び降りてごらんなさいなどは誘惑ではないように思います。神の子である主イエスだから試みられるのであり、救い主・リーダーとしてふさわしいかというテストのようなものだとか、主イエスが40日の断食をして、私たちと同じように、空腹の苦しみを味わうことや、弱さを覚える、苦しさも人と同じように経験してくれたのだと、そのように思っていました。この聖書を「私たちの事柄」として受け止めていませんでした。
 けれども先週の石丸先生のこの箇所についての話では、誘惑を受けることはアイデンティティーに関わることなのだと言っていました。なるほどと思いました。主イエスは力ある存在です。だから自分のためにその力を使ってみろと誘惑を受けました。しかし、自分のためでなく、その力は人々を救うためにだけに使うことを貫きました。私たちに言い換えれば「この責任があるから、こういう行動はしない」そういうアイデンティティーの現われです。
 誘惑は、そのアイデンティティーに反することなので、人には言えないものばかりだと思います。例えば、空腹ではなくても、大人たちがスーパーで食べ物を万引きする事例は数多くあります。不倫や汚職で取り沙汰されるのは表に見えるほんの一部です。いくつになっても、人のものが羨ましく見え、欲しくなってしまう。手に入れたくて我慢できなくなってしまう。そうして妬む思いに駆られます。他人のものを手に入れたい思いでいっぱいになることや、自分に都合の悪いことは見て見ぬ振りをする。弱いものを制するため、いじめる。その内容は人によって違い、多岐にわたります。誘惑は、私たちの内側を蝕んでゆき、虚しさを大きくしていく。やがて、それは私たちを滅びに向かわせるものになります。
 そうした誘惑から私たちを守るのは、特別な力や能力ではなく、誰しもに与えられている、聖書の言葉でした。旧約聖書の預言者であるモーセから、神の民に届けられた、聖書の言葉です(申命記8章)。この言葉は、申命記で神が命じられたこと、また神が私たちに求めておられることが示された言葉が書かれた板、「十戒」を受け取る時に伝えられ、その十戒を正しく受け止めるための大切なものです。
 十戒は、前半の1−4戒は神と私たちの関係について。5−10戒の後半は人との関係について書かれています。前半の神との関係の中で生きること、つまり神の目を気にして生きるということがわからなければ、後半の人との関係・人の目を気にして生きるということもわからないのです。神の目を気にしなければ、人は嘘をついても、不倫をしても、力の弱いものをいじめても、人が見ていなければ良い。バレなければ良い。そうした考えを持つでしょう。神の意を問うことが、神の目を気にして生きるということの始まりです。
 マタイによる福音書に、ペトロという弟子が主イエスに「サタン」と厳しく言われる場面があります(16:23)。主イエスが、自らのこれから先に待っている十字架刑について語ると、ペトロは「そんなことがあってはなりません」と主イエスに言います。すると主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言います。それは、「後ろに下がれ」ということです。
 主イエスも自分の力にたよらないように、自分の願い、考えではなく、神の思いを前に置くためにこの試練を受けられました。
 誘惑する者、試みる者とは、聖書の最初のアダムとエバを誘惑した蛇と同一視されます。サタンが支配するのは闇の国であり、罪と不正の源です。主イエスはその働きを滅ぼすために来られました。主イエスの悪霊に対する勝利はサタンの国の終わりであり、神の国の始まりを意味します(マタイ12:28)。神を神とすることがその始まりです。神が求めておられる歩みは、私たちを特別な関係へと招き入れるものです。誘惑の時も私たちは神を神とする、神のまなざしの中を歩みましょう。