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礼拝説教9月27日

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「我々」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書3章13ー17節  ここには、わたしたち教会が信じている神はどういう方かということが書かれています。第一には「三位一体」の神であるということです。父なる神、神の子なるイエス・キリストという神、聖霊の神。「三位一体」という言葉自体は聖書には直接には出てきませんが 、 「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた」 などの箇所から理解が深まり、三者はすべて神の現れであって、その本質は一つ、一体であると考えられ、「三位一体」の神という言葉が出来ました。わたしたちが信じている神は、父、子、聖霊という三者の交わりをご自身の内に持っている方です。 別言すれば、神は孤独な方ではないとも言えます。聖書は、神は人を造られたと言いますが自分の孤独を埋めるために人を造られたのではありません。ご自身、既に豊かな交わりを持つ方だからです。人の創造は別の目的のためです。それはご自身の交わりに人を招くため、人間同士が自分たちのような交わりを経験するため。また、神が造られた良い世界で命をきちんと使ってほしい。そういう願いや目的が創造の業にはあります。造られたという時、一人ひとりには特別な固有の目的をもって造られたことを意味します。それを聖書は使命と言います。一番その人らしい命の使い方です。使命なんて自分にはないという方もあるかも知れません。しかし、ある人は言います。体を持たない人がいないように、使命を持たない人もいない。使命がないのではない。まだ、見つけていないだけなのだ、と。 しかし、人は造り主を忘れたとき、自分の生きる意味が分からなくなりました。聖書の人々もそうです。だからこそ、洗礼者ヨハネは造り主である神を指し示し、悔い改めの洗礼を授けていました。そこに主イエスがやってきます。気がついたヨハネは言います。 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」 。ヨハネは自分の役割を分かっていました。人には時があり、出番があり、役割があります。ヨハネは自分に与えられた先駆者としての使命に忠実でした。主役が来られれば、自分の役目は終わり。聖霊

礼拝説教9月20日

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「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」小松美樹伝道師 マタイによる福音書3章1ー12節  イエス・キリストが登場する舞台を整えるように 「洗礼者ヨハネ」 という人物の 声 によって始まりました。ヨハネは、旧約聖書の時代に待望されていた「メシアはこの方で、裁き主であり、霊を授ける権威を持つ方である 」と語り 、主イエスを指し示します。そうして旧約と新約の時代とを繋ぐ者です。  いよいよ真理の王である神の支配が始まり、終わりの時に向かう 「天の国は近づいた」 のです。そのことを懸命に伝えるヨハネの声が 荒れ野 に響きます。  荒れ野であるにも関わらず、洗礼者ヨハネのもとに人々が集まってきて、洗礼を受けました。 洗礼は、今日に到るまで教会で続けてこられているクリスチャンとなる時に必ず行われる儀礼です。悔い改めのために何度も受けるのではなく、ただ一度きり受けて、神のものとされるのです。洗礼とは新しくなることであり、水によって古い自分に死ぬことであり、主の呼びかけに応えることです。 これまでの古い自分としっかり向き合い、新しい歩みを始めてくことが求められています。ヨハネのもとを訪れた人の中には、律法を守っているか否か、あるいはユダヤ人だから私たちは大丈夫、という表面的なことを気にして、悔い改める歩みを始めようとしない者もいました。そうした人々に 「悔い改めにふさわしい実を結べ」 とヨハネは語ります。  救い主を求めて、自分たちを取り巻く状況、社会を変えてほしいと願いつつも、自らが変わることは考えていないのです。救いを求めることは、主イエスをそのまま受けとめることです。自分の内にお迎えする席を用意することです。「でも」とか「いや、それはこうなんです。」と言い訳をしたくなることは、自分の考えを捨てることができないことだと思います。変わる気はない、自分自身の思いを退けて主イエスを中心にお迎えすることができない。それでは実を結びません。 イエスを救い主と信じる時、わたしたちはキリストと出会う前の歩みを断ちます。水によって一度死に、新たな命を得て歩み出します。火によってというのは、聖霊の働きです。霊の火に燃やされて、尽きぬ命をいただいています。  わたしが洗礼を受けるとき、そんなことは理解していません

礼拝説教9月13日

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「出エジプトの再来」石丸泰信牧師 マタイによる福音書2章13ー23節 マタイ福音書2章には、主がお生まれになった後の出来事が描かれています。その後半を読みました。前半では、占星術の学者たちが幼子を礼拝したこと、夢で「ヘロデの所に帰るな」というお告げがあったので彼らは別の道を通って帰って行ったことが伝えられていました。今日の箇所は、その後のことです。ヘロデは 「占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒」 りました。新しく生まれた王を何としてでも殺さないといけない。そして 「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」 ました。 しかし、同時期、ヨセフの夢に主の天使が現れて「 エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」 と告げたので 「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに去り」 ました。ヨセフたちは男児殺害を免れました。 今日の箇所は3つの段落に別れていますが、それぞれに旧約の引用があります。そして、それは 「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」 等と言われます。これによってマタイが言わんとしていることは、これらの出来事は、たまたまに起こったのではない。神の約束の成就なのだということです。しかし、これは躓きになると思います。男児殺害は偶然の重なりによって起こった悲しい事件ではなく、旧約の言葉の実現だと読めるからです。すると、誰もが思うでしょう。なぜ神は、人間の残忍さを放っておかれるのか。しかし、その想いは違うと思います。ヘロデのしたことは神の想いに背くもの。それを神が喜んで許可したのではない。神はずっと、このような事件が起こることを予見していたと伝えようとしているのです。なぜ、そう言えるのか。 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ」 と告げる預言の言葉だけ書き方が違うからです。他の段落では 「実現するため」 という書き方です。しかし、ここでは 「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」 。神は預言者を通して、このままではいずれ悲惨な事件が起こることを告げていたのです。主はずっと悲しみと共に人の罪を見つめておられます。ここは、そのような世界です。しかし、だからこそ神は独り子イエスを送られました。罪の悲惨さをお仕舞いにするためです。このことこ