礼拝説教9月13日

「出エジプトの再来」石丸泰信牧師
マタイによる福音書2章13ー23節

マタイ福音書2章には、主がお生まれになった後の出来事が描かれています。その後半を読みました。前半では、占星術の学者たちが幼子を礼拝したこと、夢で「ヘロデの所に帰るな」というお告げがあったので彼らは別の道を通って帰って行ったことが伝えられていました。今日の箇所は、その後のことです。ヘロデは「占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒」りました。新しく生まれた王を何としてでも殺さないといけない。そして「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」ました。

しかし、同時期、ヨセフの夢に主の天使が現れて「エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と告げたので「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに去り」ました。ヨセフたちは男児殺害を免れました。

今日の箇所は3つの段落に別れていますが、それぞれに旧約の引用があります。そして、それは「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」等と言われます。これによってマタイが言わんとしていることは、これらの出来事は、たまたまに起こったのではない。神の約束の成就なのだということです。しかし、これは躓きになると思います。男児殺害は偶然の重なりによって起こった悲しい事件ではなく、旧約の言葉の実現だと読めるからです。すると、誰もが思うでしょう。なぜ神は、人間の残忍さを放っておかれるのか。しかし、その想いは違うと思います。ヘロデのしたことは神の想いに背くもの。それを神が喜んで許可したのではない。神はずっと、このような事件が起こることを予見していたと伝えようとしているのです。なぜ、そう言えるのか。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ」と告げる預言の言葉だけ書き方が違うからです。他の段落では「実現するため」という書き方です。しかし、ここでは「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」。神は預言者を通して、このままではいずれ悲惨な事件が起こることを告げていたのです。主はずっと悲しみと共に人の罪を見つめておられます。ここは、そのような世界です。しかし、だからこそ神は独り子イエスを送られました。罪の悲惨さをお仕舞いにするためです。このことこそ重く受け止められるべきことです。

ある人は、なぜ悲惨な事件が起こるのかという問いに、人は誰もが間違えるのに、自分は正しく判断できると思ってしまって生きているからだと言います。正しく判断できると思っているからこそ、神に問うことも任せることもしません。あの人は悪い、この人は正しいと言って裁いた後、しかし、後になって、あれは間違いであったと気がつくことがあります。そういう人間が、家の中で、勤め先で、自分は神のように正しく判断できると思って振る舞う。それでは悲しみはなくなりません。

しかし、だからこそ聖書は、主イエスはエジプトに行かれたと言います。それは「『エジプトからわたしの子を呼び出した』と・・・言われていたことが実現するためであった」。かつてイスラエルの人々は、エジプトで奴隷の生活をしていました。神はそこにモーセを遣わし、救い出されます。もう奴隷はお仕舞い。これからは一人ひとりが大切にされる生活のはじまり。それが出エジプトの出来事でした。しかし、それは同時に、神に背く生活の始まりでもありました。上記は預言者ホセアの言葉ですが「のに」という言葉が続きます。「わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き・・・」(ホセア書11:1-)、というようにです。人々は神に呼び出され、エジプトの奴隷から救い出されたのに、自ら去って行き、再び、罪の奴隷となっていったということです。つまり、一度、出エジプトしたのに、それは駄目であったという預言なのです。それに対してマタイは、幼子イエスはエジプトに行ったと記します。これは象徴的に出エジプトの再来です。マタイ福音書は、これからイエスの第二の出エジプト、罪からの解放の救いを描こうとしているのです。

最初の出エジプトの時、天からのマナで命を満たしながら人々は歩きました。わたしたちは聖餐のパンで命を満たしながら、主イエスとの旅を続けています。その道の途中で主は言われます。敵と思う人のためにも祈りなさい。自分を愛してくれる人だけを愛したところで何になろうか(5:43)。あの人は間違っている!と言う前に大切にしなさい。正しい、正しくないの判断無しに、必要としている人には一杯の水を差し出しなさい(2531)。それはわたしにしてくれたこととして喜ぶ、と。今、わたしたちは第二の出エジプトの旅の中に生きているわけです。だから、まるで主が一緒におられないかのように思って、自分で善し悪しをジャッジする必要はありません。主を愛し、すべきことをする。そういう旅です。