礼拝説教9月20日


「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」小松美樹伝道師
マタイによる福音書3章1ー12節

 イエス・キリストが登場する舞台を整えるように「洗礼者ヨハネ」という人物のによって始まりました。ヨハネは、旧約聖書の時代に待望されていた「メシアはこの方で、裁き主であり、霊を授ける権威を持つ方である」と語り、主イエスを指し示します。そうして旧約と新約の時代とを繋ぐ者です。

 いよいよ真理の王である神の支配が始まり、終わりの時に向かう「天の国は近づいた」のです。そのことを懸命に伝えるヨハネの声が荒れ野に響きます。

 荒れ野であるにも関わらず、洗礼者ヨハネのもとに人々が集まってきて、洗礼を受けました。洗礼は、今日に到るまで教会で続けてこられているクリスチャンとなる時に必ず行われる儀礼です。悔い改めのために何度も受けるのではなく、ただ一度きり受けて、神のものとされるのです。洗礼とは新しくなることであり、水によって古い自分に死ぬことであり、主の呼びかけに応えることです。これまでの古い自分としっかり向き合い、新しい歩みを始めてくことが求められています。ヨハネのもとを訪れた人の中には、律法を守っているか否か、あるいはユダヤ人だから私たちは大丈夫、という表面的なことを気にして、悔い改める歩みを始めようとしない者もいました。そうした人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ」とヨハネは語ります。

 救い主を求めて、自分たちを取り巻く状況、社会を変えてほしいと願いつつも、自らが変わることは考えていないのです。救いを求めることは、主イエスをそのまま受けとめることです。自分の内にお迎えする席を用意することです。「でも」とか「いや、それはこうなんです。」と言い訳をしたくなることは、自分の考えを捨てることができないことだと思います。変わる気はない、自分自身の思いを退けて主イエスを中心にお迎えすることができない。それでは実を結びません。イエスを救い主と信じる時、わたしたちはキリストと出会う前の歩みを断ちます。水によって一度死に、新たな命を得て歩み出します。火によってというのは、聖霊の働きです。霊の火に燃やされて、尽きぬ命をいただいています。

 わたしが洗礼を受けるとき、そんなことは理解していませんでした。ただ、主イエスの言葉に信頼し歩みたい思いでした。悔い改めはあったのだろうか?と思います。ある人は「誰でも、洗礼を受ける時は、幼児洗礼のようなものである」と言います。初めは私たちは何も知らないのです。しかし、主イエスの方から私たちの方へと来てくださるのですから、それをそのまま受け入れて、主と共に歩みたい。そう願うだけで洗礼を受けるので良いのだと思います。けれども同時に私たちは新しい歩みを始めているわけです。神の深い愛を知り、礼拝するようになるからです。自分の身に何か起きたとき、ギリギリ助かった。見逃された。そうした思いをした時には、きっと自分が中心にいるのだと思います。けれども、そのために赦しをもたらす力があったのだということを神に赦された人たちは知っています。忍耐してくれている人がいる。そうした思いに気がつくようになるのだと思います。

 悔い改めの実を結ぶことは、礼拝することです。その中で、くり返しくり返し「赦しを与えられて感謝する歩み」が始まります。洗礼者ヨハネの語る言葉は裁きの時のための警告でした。しかし、イエス・キリストの言葉は裁きの日のための警告ではなく、赦しの言葉です。ヨハネも経験したことのない、神の愛の現れがイエス・キリストです。誰も想像つかない方法でわたしたちのもとに来てくださり、全てを捧げてくださるお方でした。

 私には、洗礼を受けないのかな?とか受けてほしいなと思っている人がいます。過去にも高校生が「洗礼を受けたい」と話してくれたけれども、保護者と相談した結果、「まだだなと思った」とか、「今じゃない」という話を聞きました。周りの人たちが言ったから受けるものではありません。けれども、今ではないという思いになったとき、次いつならば良いのだろうかとも思います。「まだ」と思うとき、ヨハネの告げる緊迫感は無いのだと思います。悔い改めるといことは、自分が一旦否定されることでもあります。主イエスの愛を知り、命まで捨てて救い出そうとしてくださるお方に出会った時、「今までの自分のままで良い」とは言っていられないことに気がつくのだと思います。そうして自分が打ち砕かれたところで「神にとらえられる」のです。悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活は、神の前に打ち砕かれたところから始まり、赦されたことへの感謝をもって、礼拝を続けることです。そうして神の国を証ししてまいりましょう。