2024年3月10日主日礼拝「主の晩餐」マタイによる福音書26章 26~30節

2024年3月10日主日礼拝
「主の晩餐」
マタイによる福音書 26章26~30節

【説教録画は <Youtube>】

 信仰生活の中心に礼拝があります。その礼拝の中心は説教と聖餐です。信仰生活は、神との生きた交わりがあって初めて始まります。神が生きておられることを知って祈り、その眼差しの中で生活をします。この交わりはわたしたちの方で作りだしているものではありません。神がこの交わりを願ってくださり、それをイエス・キリストを通して示してくださいました。そして、その思いがどれだけ強いかが示されているのが、この「主の晩餐」の場面から始まった聖餐です。 

 「一同が食事をしているときに」という言葉で始まります。これは過越祭の食事です。過越祭は「子羊の血」の犠牲によって災いを過越し、出エジプトをしたことを思い起こして祝う祭りです。その食事のメニューは焼いた羊肉、焼いた卵、苦菜、塩水に浸して食べる青菜、果物の混ぜ物、ワインを4杯。そして種なしパンでした。弟子たちとの最後の晩餐で主イエスは何を食べたか?パンとワインだけではないのです。それぞれに出エジプトにおける意味が込められていました。主イエスはその内の「パンを取り…それを裂き、弟子たちに与えながら」言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。またワインの杯を取り、彼らに渡して言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。弟子たちは驚いたと思いますし、全く意味も分からなかったと思います。
 
 聖餐式の式文にも、この主の言葉はそのまま繰り返されています。そして、典拠は違いますが、「わたしの記念として、このように行いなさい…このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:25-)と聖餐式では続きます。「取って食べなさい…この杯から飲みなさい」。そして、それを「記念として…行いなさい」。これは命令です。記念とは思い起こすことです。そして、この言葉の中に神の思いが詰まっていると思います。どのような思いか?この食事を「新しい契約」のしるしとするということです。 

 聖書には新約、旧約がありますが、その新約とは、この「新しい契約」のことです。マタイ福音書には「新しい」という言葉は出てきませんがルカ福音書(22:20)やⅠコリント(11:25)の主の晩餐の場面には「新しい契約」という言葉がはっきり出てきます。この新しい契約はエレミヤ書(31:31)で預言されていました。そこでは「かつて結んだ契約」とは違うと言います。ここから、かつての契約を相対的に旧いものとして「旧約」と呼ぶようになりました。「かつて結んだ契約」とは出エジプトの後に、シナイ山で受け取った十戒です。そこでは、このように言われています。「わたしの契約を守るならば…あなたたちは…わたしの宝となる」(出エジプト19:5)。かつての契約は「人間が契約・約束を守る⇒神もあなたを愛し、守る」、しかし「人間が約束を破る⇒契約は破綻」という形でした。他方、新しい契約を端的に言えば「あなたが約束を破っても、わたしは約束を終わりにしない」というものです。 

 このことがよく分かる出来事が「ペトロの離反を予告する」(26:31-35)という場面と「ペトロ、イエスを知らないと言う」(26:69-75)です。離反の予告は本当になり、ペトロは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(26:34)という主イエスの言葉を思いだして泣きました。しかし、次のことも思いだしたと思います。「皆わたしにつまずく。…しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(26:31-32)。ペトロは、主イエスに「君はきっと私を裏切るよ。でも、立ち直ったらガリラヤでまた会おう」という約束をもらっていたのです。実際に裏切ってしまうまで、この意味は分からなかったかもしれない。でも鶏が鳴いたとき、意味が分かったのです。かつての契約では「弟子として従う⇒主イエスも弟子を愛す」という形。けれども、それは出来なかった。しかし、新しい契約では「従えなかった⇒イエスの態度は変わらない」。ここに新しさがあります。 

 皆さんは絶望をしたことはありますでしょうか。普通、絶望なんてしたいと思いません。だからこそ、失敗をしたとき自分に絶望しないために人のせいや何かのせいにします。アダムやエバがしていたことです。責任転嫁は自分よりも弱いものに向けられます。そうやって自分をセーフにすると絶望しないで済むからです。しかし、ペトロは誰のせいにもしませんでした。ただただ絶望し、自分に泣いたのです。もしも、自分は悪くないといって、責任転嫁していたら、自分に泣くことはできません。しかし、ペトロは「ガリラヤで会おう」という約束を通して、自分の知らない弱さすら知られていて、それを受け入れられていること。そして、自分が手を離してしまっても、主は、わたしの手を離さないということを、しっかりと感じ取っていたのだと思います。だからこそ、自分の罪を真っ直ぐに見、泣くことが出来ました。
 
この新しい契約の中に生きていることを思い出すために、主は「取りなさい」「飲みなさい」「記念としなさい」と言われました。信仰生活の根幹に、この新しい契約があること、何度でも主が招いてくださっていること。聖餐の度に思い出したいと思います。