2024年2月11日主日礼拝「ペトロの手紙」石丸泰信先生 ペトロの手紙Ⅰ 1章3~9節

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 主イエスの弟子のペトロが兄弟姉妹を励ます為に書いた手紙です。当時、キリスト者は政治的な迫害の中にありました。また、近隣とのトラブル、主人と僕の間でのトラブル(2章)、妻と夫の間でのトラブル(3章)のことが書かれています。大小を問わず、試練は忍耐と祈りを必要とする信仰の闘いです。この手紙の目的は、再び、天にいます神へと目を向けさせることです。困難の中で弱るとき、端から見ると、それほど深刻には感じられなくとも、本人は自分一人でどんどん暗い方へ行ってしまうことがあります。ある人は、苦しい日々の中で祈ることが出来なくなった人に「当然でしょ。あなたは大変な中にいたのだから。これからよ」と声を掛けていました。本当にそうだと思います。天に顔を向け直す歩き方が、これから始まるのです。 

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と言います。どうしてか。「わたしたちを新たに生まれさせ」てくださって、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださ」ったからです。「新たに生まれ」とは、キリスト者であろうとそうでなかろうと新しい命に復活をする経験です。ペトロはイエス・キリストを見て信じ、見て復活をした人です。だから「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており」と言って驚き、喜びます。復活というのは死者の蘇りにだけアクセントが付くものではありません。周囲に無視=存在の否定をされて「生きながらに死ぬ」という事があります。また、自身でも自分の存在を否定してしまうこともあります。ペトロがそうでした。一番弟子と言われながら、三度、主を否んだ経験(ルカ22:54-)。消えてしまいたいと思ったでしょう。けれども復活の主に出会って、ペトロは「新たに生まれ」、命を注がれたわけです。

 『っぽい』(ピーター・レイノルズ著)という絵本があります。絵を描くのが大好きな男の子ラモンは、花瓶の絵を描いているときに「全然、似ていない」と言われてしまい、絵が描けなくなってしまいます。これまでの絵もぐしゃぐしゃに丸めて捨ててしまいました。何かを描こうと思っても頭の中に「似ていない」という声が響いてきてしまう。今度も丸めて捨てようとしていたとき、妹が、その絵を奪って逃げて行くのです。追いかけて妹の部屋に入ると、その部屋の壁にはたくさんのラモンの絵が貼ってありました。彼が捨てたはずの絵です。妹は言います。「この絵が一番好き。花瓶の気持ちがするから」。ラモンビックリしました。そして似ているか否かではなく、気持ちと言われ、また絵が描けるようになりました。ラモンに命が注がれた瞬間です。この復活の命・復活の力は愛されるということです。

 聖書の伝えている復活・死者の蘇りは、それ自体、喜ばしい驚くべき出来事です。けれども、キリスト教が世界に広まったのは、その復活の教理や理解が広まったというよりも、愛の力である復活の力が広まったと言えそうです。愛されたペトロが、今度はそれを渡す側になり、その経験が世界中に広がって行ったのです。復活の主イエスとの出会いは、自分の復活の出来事です。 そして「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださ」ったと続きます。財産を受け取るのは、まだ先です。しかし「神の力により、信仰によって守られています」と約束しています。わたしたちの持っていると思っているものは皆、やがて失われてゆくものです。力、健康、友、家族、財産。やがては衰えていきます。勿論、だからといって大切ではないということではありません。しかし、それだけではないことを聖書は教えてくれます。

 なぜ、ペトロは、こんな話を?試練の時に何を優先し、何を大切にすべきかを分かって欲しいのです。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれない」と言います。信仰の闘い故に悩むことがあります。しかし旧約は「悩みは笑いに勝る」と言います(コヘレト7:3)。神を信じていれば、あなたの喜びは朽ちないとは聖書は言いません。「草は枯れ、花は散る」(1:24)とあるように、喜びを失うときはあるのです。「しかし、永遠に主の言葉は変わることがない」と続きます。詩編も謳います。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(119:71)。試練を通してわたしたちは自分を知っていきます。自分の信仰、自分の罪。新しく自分自身と出会うことが出来るのは試練を通してだけです。 

 そのためにどうするか。ちょっと先ですが「聖なる生活をしよう」と小見出しの付いた箇所があります(1:13-)。ある人は、この世界を「先生がいなくなった教室」に喩えています。用事があって先生が教室から出て行った。すると児童・生徒は好き勝手にし始めます。しかし、先生が帰ってくると再び教室は落ち着き、平和に。聖なる生活とは先生が不在の(=キリストが見えない)世界にあって、まるで、先生がいるかのように過ごすということです。そして、「公平に裁かれる方を『父』と呼びかけているのですから…畏れて生活すべきです」(1:17)とも言われています。「畏れて」とは「信頼して」ということです。目の前の利害得失に一喜一憂することがありますが「しぼまない財産」があること。「父」は公平に見ているということ。人はどうであれ見えないキリストの支配の中に過ごすこと。それらを通して、自身の罪を知り、にもかかわらず愛されていることを知る。その時、何度でも「新たに生まれ」させられる経験をし、「さあ、これから」と再び、顔をあげられるのだと思います。