2024年1月21日 主日礼拝「信仰によって見えるもの」小松美樹牧師 ヘブライ人への手紙 11章1~3節

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  「信仰」とは何か。わかりやすいようでありながら、説明することの難しいものです。「ヘブライ人への手紙」は説教の言葉であると考えられています。具体的な教会があり、説教者が語りかけた言葉です。

 11章では、教会の信仰の原点、「すべては神様から始まった」という事実に立って、信仰とは何かを語っています。そして、聖書に記される「昔の人たち」は何を見つめて生きたのか、旧約の時代に遡って語ります。 イエス・キリストは、物事の本質に、常に目を向けておられました。それがどこにあるのかを見定めながら歩んだ。このことは逆を言えば、イエス・キリストは、本質以外のことに関しては、気に留めない自由な方でした。信仰を持つということを外から見れば、不自由で、何か制限されるように思われるかもしれません。しかし、そうではなく、神を信じることは、この世界の本質、命の本質を知るということで、私たちは命を脅かすものを前にしても、死からも自由である者となるのです。主イエスのご生涯は、それをお示しになっていました。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。厳しい迫害の中でも信仰を捨てないようにと、読者を励ましてきた著者が、その信仰とは何なのかを一言で表しています。信じることは、決断がいることです。決断なしには信仰に入ることはできません。しかし、信じたら疑いや迷いがなくなるのではありません。信仰者も迷いますし、信じられなくなることだって、訪れるかもしれません。見えない事実を信じるのですから、それは当然のことのように思います。その時こそ、礼拝に来る。聖書を読み、祈ることを大切にしたいと思います。その信仰によって、確信に変えていただくためです。

  ある人は、信じることは時間を必要とすることだと言います。互いを知らなければ、信頼してお金を預けることや、貸し借りはできません。また、信じることは時間もかかるだけでなく、迷うこと、疑うこと、わからない、と言うことも、信じるという事柄の中に含んでいるのです。聖書を読んでいても、神様の御心、ご計画がわからないということはいくつもあります。そして、わからないけれども、信頼する。それにはやはり、時間がかかるのです。しかし、信じられないことを無理に信じ込むことはありません。それは信仰ではありません。 

 「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。信じて生きてみる者に、信仰の事実が示され、信じられるようになるのだということが言われています。「昔の人たち」の代表として、ノアは「信仰によって、まだ見ていない事柄について…」(7節)、アブラハムは「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行先も知らずに出発した」(8節)、「…この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ…。」(13節)。「行先も知らずに出て行く」信仰者の姿が記されています。皆、神の言葉を信じて、踏み出し、旅に出て行くのです。 初代教会のキリスト者は、世界最強のローマ帝国の迫害のなかで、この事実を信じたのです。目の前の、権力、財力に伏せていくような現実にありながらです。「この国もまた、神さまに許されて存在しているに過ぎないのだ」と信じたのです。そして迫害の時を耐え抜きました。その信仰が正しかったと言うことは、今日の私たちの目には明らかです。この手紙を通して、私たちに同じ信仰に生きることを、励ましをもって、勧めているのです。それが神の御心なのです。