2024年1月14日主日礼拝 「聖書について」石丸泰信先生 テモテへの手紙Ⅱ 3章14~4章5節

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 テモテの手紙2は差出人パウロの同労者・働き人テモテへ宛てられた、「聖書」の言葉が健全な教えとして聞かれることを願った手紙。そして、遺訓ともとれる言葉が記されている手紙です。パウロはこの時、囚人という身分で(1:16)、命は短いと感じていたようです。だからこそ、このような言葉を残しています。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」(1:13)。「健全な言葉」とは、現在、わたしたちが手にしている新約聖書に収められているパウロの手紙の言葉。そして何より、この手紙に書かれている言葉のことです。

 パウロは手本とすべきものとして、真の働き人の姿勢について日常的な比喩を使って書き残しています(2:3-)。それは、兵士、競技者、農夫の姿です。兵士は日常生活のことは信頼し、煩わされることなく招集者への忠誠、献身、勇敢さを忘れません。競技者は規則を遵守し訓練することを忘れません。農夫は収穫に一番に与ることを知っています。同時に、労苦しない人には収穫はないことも知っています。そして、何より「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と言います。つまり、主人は誰であるかを思い起こし、その主人に日々の生活を信頼し、聖書の言葉を自らの規則として持ち、まだ見ぬ収穫のために労苦しながら歩むこと。これがパウロ自身、行ってきたこと、そして、そうあってほしいという、教会や家庭、職場での働き人への手本とすべき姿です。

 そのうえでパウロは「聖書」について、こう記します。「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません…。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。どうして、こんなに聖書を強調するのでしょう。信仰者の歩みを守り、導いてきた唯一のものが聖書だからです。『世界を動かしたユダヤ人100人』という本があります。ユダヤ人の世界の人口は1517万人です。もし東京都民1400万人から100人を集めたときの共通点はあるでしょうか。おそらくありません。しかし、ユダヤ人100人の共通点とは何か。それは旧約聖書です。そして、安息日(土曜日)には働かない、手を休める。その代わりに頭を動かした。そのような規則、習慣を持った生活です。

 その聖書には何が書いてあるか。一つひとつの言葉を礼拝で聞けば、「ああ、そうか。わかった」という気持ちになれると思います。けれども、聖書全体を読むと、つまり、幾つもの箇所を読むとどうでしょうか。例えば、新約の『ローマの信徒への手紙』を読むと、信仰義認ということについて書いています(5:1-)。人は律法の“行い”ではなく、神への“信仰”、“信頼”によって、その生き方を義(=良し)とされるという信仰です。信仰重視の姿勢です。他方、『ヤコブの手紙』を読むと「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と記されています(2:17)。今度は行い重視です。どちらが正しいか。どうして聖書の中で反発し合っているのか。

 それは聖書の言葉の前に一度立ち止まり、留まるためです。「確信したことから離れてはなりません」という言葉は「確信したことに留まりなさい」とも翻訳できます。わたしたちは一つの答えを得て、これが正しいと思うと独善的になります。聖書はそれを良しとしません。例えば、ヤコブは信仰よりも行いが大切と言いたい訳ではありません。行いというのは具体的なことです。礼拝に行く。一杯の水を差し出すなど。つまり、ヤコブは信仰とは具体的だと言いたいのです。ここで斥けているのは抽象的な信仰です。神を信じている告白しても、もしも、その神を漠然と信じているとなると、その信仰の姿も漠然とした抽象的な信仰生活になります。所謂、心の中だけの信仰。けれどもわたしたちの信頼する神は、具体的な方です。わたしたちの友となると仰って、事実、友となってくださったし、わたしが身代わりにと言われ、事実、代わりに痛みを負ってくださいました。新しい友が出来れば、生活も変わると思います。一緒に暮らす人ができれば、やはり生活は具体的に変わると思います。

 けれども、わたしたちは変わることや過ちを認めることが苦手です。一度、正しいと思ったことに留まろうとします。だから、都合の良い聖書の言葉だけを選り好みしたくなります。パウロは、そのことを知っています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」。聖書の言葉から離れて自分の都合の良い作り話の方に留まることも出来ます。他方、一読しただけではわからない聖書の言葉であったとしても、それに留まりながら生活することも出来ます。パウロが、キリストの兵士として、競技者として、農夫としての姿勢を忘れず、毎週聞く聖書の言葉に留まりなさいと言うのは、そういう生き方をするときに、自ずと、自らの過ちから守られ、その歩み自体が「御言葉を宣べ伝え」る姿になるからです。