2023年11月12日主日礼拝
「祈りの勧め」 石丸 泰信 先生
フィリピの信徒への手紙 4章2~7節

【説教録画は <Youtube>】

 フィンセント・ファン・ゴッホの絵に「アルルの寝室」というものがあります。黄色い家の誰もいない部屋に二つの椅子、一つの机、一つのベッド。そして二つの枕が描かれています。ここはゴーギャンと共同生活をしていた部屋でした。多くの人が「不在」を描いていると評価します。二人の姿を描かないという形で不在という深淵を描いていると。他方、P.ティリッヒという神学者は「和解の手段の不在」だと評価します。ゴッホは答えがない故に神に叫んでいるのだ、と。

 この手紙にも二人の女性の対立が描かれています。「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。対立の理由は書いていません。二人の間に何があったのか。いや、むしろ、何かがなかったから対立になったのだと読むことも出来ます。何かの欠如です。ある人は、神と人との関係(垂直次元)がしっかりすると、次に隣人や共同体(水平次元)を愛することを学び始めるといいます。相手のことだけを見ていても叫ぶことしか出来ません。

 パウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言います。人と人が対立したとき、仰ぐべき上があるというのです。ある映画の中のセリフに「神に“家族を一つに”と祈ると神は家族を一つにしてくれるのかな?それとも、家族が一つになるチャンスをくれるのか?」というものがあります。今、パウロは二人が「同じ思い」を抱くチャンスだと思っています。「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」るとき、それに気がつくことが出来ます。 

 そして「同じ思い」を抱くために「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言います。執筆時、パウロは獄中でした。世を去るときも遠くないと感じながら「喜べ、喜べ」というのです。ある人は「死に様は生き様に同じ」と言います。いつも自分中心に生きてきた人は最後の時もそれを抜け出るのは難しい。他方、いつも人と神とに信頼してきた人は最後の場にあって、その信頼が増すとか。わたしたちは死を思うとき、自分が持っているつもりだったものは、実は持っていたとはいえない事に気がつきます。当たり前と思っていた日常は、実は特別な時であったことを知ります。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言いますが、今日すべきことは、思い悩むことではなく、一つひとつのことに喜びを見つけることです。
 最後に、「喜びなさい」とパウロがいうときに「常に」という言葉が挟まっていることに注目したいと思います。「常に」とは、「途中」ということです。パウロが喜べというのは、たとえ小さくとも何かの目標を達成した瞬間を見つけて喜びなさいというのではないのです。あれが出来た、これをしてもらえた。それを当たり前と思わずに喜びなさい?そうではないのです。その歩みの中にあること。その途中であることに喜びなさいというわけです。パウロも「既にそれを得たというわけではなく・・・何とかして捕らえようと努めているのです。・・・」と言います(3:12)。まだ得ていない。しかし、そのチャンスの中にある。まだ途中なのです。しかし、そこに向かっている。それに気がついている。パウロは「途中」であることに喜んでいます。 

 その「途中」にこそ真理があるといった人がいます。19世紀の哲学者ヘーゲルです。彼は、近代は「自由」を得た代償に「対立」が生まれたと言います。しかし、その「対立」こそ「一段高くなること(アウフヘーベン)」の原動力だというのです。彼の思想は「弁証法」です。例えば、会議で意見の対立があった場合、そのどちらかの意見を採用するのではなく、時間を掛けて議論を続けたとき、それまで誰にも考えつかなかった意見に到達することがあります。そのように一段高い景色が見えること。これが弁証法です。もう少し丁寧に見てみましょう。一段高くなるとき、何が起こっているのか。自己否定が起こっていると彼はいいます。わたしの意見が議場で否定されたということです。そして、他の人の意見も否定された。これは苦しいことです。しかし、そこには告白と赦しがあるとも言います。自分の意見は間違っていたという告白です。そして、それを議場は赦す。つまり受け入れる。互いのそのような作業を通して、一段上へ=「成長」しているとヘーゲルはいうのです。真理はどこかに到達したときに得られるものではなく、告白と赦しを通して互いに成長してゆくところにあるのです。パウロは「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と言います。仲違いがなくなって平和になるのではないのです。「途中にこそ真理」と同様、神に祈っていくとき、その悩みや問題のただ中で平和が与えられるのです。 

 会議などではなく、仲違いをしている相手のために自己否定をするのは苦しいことです。いつも自分の正しさをわたしたちは捨てられません。だからこそ、主イエスは、わたしたちに代わって御自身を否定してくださいました。否定の最たるものが、自ら望んでの十字架の死です。わたしが自分の正しさを否定できないから、主がその否定を引き受けてくださった。それを知ったとき、人は、どちらが正しいとか間違っているとか、そういうところではなくて一段高い景色を見よ。そう主に言われていることに気がつくのだと思います。