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2023年11月19日神学校日礼拝
「私に示した愛の大きさで分かる」 ヤング肇子神学生(東京神学大学大学院1年)
ルカによる福音書 7章36~50節

【説教録画は <Youtube>】  今日の物語の登場人物は、ファリサイ派のシモンとその人々、町で名高い罪深い女とされる女性、そして主イエスです。シモンは、自分の家にイエスを招いて食事会を催していました。そこに罪深い女が入ってきたのです。  ①「一人の罪深い女」の罪とは何でしょうか? この罪深い女とされる女性は娼婦だと思われます。この女性の罪は「姦淫してはらない」とあるように、姦淫の罪です。当時のイスラエルでは母子家庭や夫に先立たれた未亡人など、こういった女性にとって生活をすることが不可能な社会状況にありました。この女性は、娼婦になるしか生きる道がなく、そうせざるを得ない追い込まれた状態にあったと思われます。 ところで、この女性の本当の罪深さとは何でしょうか? それは姦淫の罪である以上に、神の民から除外されることを承知で、娼婦であることを選んだということなのです。 罪を犯し続けながら生きてきた自分を裁くのではなく、罪を赦してくださったイエスに対して、感謝の涙を流して高価な香油で主イエスの足を洗いました。涙を流して感謝をもって彼女は献身を表しています。「神さまに捨てられることを覚悟したけれども、見捨てられてはいない。もう一度私は神の民とされた!」という感謝と喜びにあふれた行為です。イエスの足に香油を塗って自分を捧げ、イエスの花嫁となりました。  ②ファリサイ派の罪とは何でしょうか?  ファリサイ派の最も著しい特徴は、律法の厳格な遵守にあります。なぜファリサイ派が律法を厳しく守ることを重んじるようになったのか、これはバビロン捕囚に至った歴史への反省が大きなきっかけと考えられています。 イエス様の時代もファリサイ派は多くいました。しかし、彼らの律法に対する厳格さは、しばしばイエスさまとの対立を生じさせました。律法を守ること自体は、良い事です。では一体、ファリサイ派の人の罪というのは何だったのでしょうか?それは自己義認です。自己義認とは、自分を自分で正義と認めることです。律法を守り品行方正な日々を送っていたファリサイ派の人々は、自分たちこそ神の目に正しい者であると自負していました。しかし、なぜ律法を守っていくことが、いつの間にか自己義認にすり替わってしまったのでしょうか。彼らは、本当は自分が正しくないこと、律法を守れていないことを自覚していました。律法を守り切れないと

2023年11月12日主日礼拝
「祈りの勧め」 石丸 泰信 先生
フィリピの信徒への手紙 4章2~7節

【説教録画は <Youtube>】   フィンセント・ファン・ゴッホの絵に「アルルの寝室」というものがあります。黄色い家の誰もいない部屋に二つの椅子、一つの机、一つのベッド。そして二つの枕が描かれています。ここはゴーギャンと共同生活をしていた部屋でした。多くの人が「不在」を描いていると評価します。二人の姿を描かないという形で不在という深淵を描いていると。他方、P.ティリッヒという神学者は「和解の手段の不在」だと評価します。ゴッホは答えがない故に神に叫んでいるのだ、と。  この手紙にも二人の女性の対立が描かれています。 「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」 。対立の理由は書いていません。二人の間に何があったのか。いや、むしろ、何かがなかったから対立になったのだと読むことも出来ます。何かの欠如です。ある人は、神と人との関係(垂直次元)がしっかりすると、次に隣人や共同体(水平次元)を愛することを学び始めるといいます。相手のことだけを見ていても叫ぶことしか出来ません。  パウロは 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」 と言います。人と人が対立したとき、仰ぐべき上があるというのです。ある映画の中のセリフに「神に“家族を一つに”と祈ると神は家族を一つにしてくれるのかな?それとも、家族が一つになるチャンスをくれるのか?」というものがあります。今、パウロは二人が 「同じ思い」 を抱くチャンスだと思っています。「 感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」 るとき、それに気がつくことが出来ます。   そして 「同じ思い」 を抱くために 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」 と言います。執筆時、パウロは獄中でした。世を去るときも遠くないと感じながら「喜べ、喜べ」というのです。ある人は「死に様は生き様に同じ」と言います。いつも自分中心に生きてきた人は最後の時もそれを抜け出るのは難しい。他方、いつも人と神とに信頼してきた人は最後の場にあって、その信頼が増すとか。わたしたちは死を思うとき、自分が持っているつもりだったものは、実は持っていたとはいえない事に気がつきます。当たり前と思っていた日常は、実は特別な時であったことを知ります。パウロは 「どんなことでも、思

2023年11月5日主日礼拝
「キリストの体である教会に満たされて」小松 美樹 牧師
エフェソの信徒への手紙 1章15~23節

【説教録画は <Youtube>】