2023年8月6日主日礼拝
「天におられるキリスト」小松 美樹 牧師
ローマの信徒への手紙 8章31~34節

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 「イエス様は、いつもわたしたちと共にいてくださる」、「一緒にいてくださるから」。教会で、よく耳にする言葉です。私も子どもの頃から、「イエス様が一緒にいてくださるから、大丈夫よ」と言われていたことを思い出しました。子どもの頃に度々そのように声をかけられては、どんな返事をしたら良いか分からないながらに、「はい」と答えてその場を終えていたことを思い出しました。私自身はあまり人にそのように声をかけません。その言葉を「お守り」のように使うのではなく、自分自身がその経験をしなければわからない、理解できないだろうと何度も思わされたためでしょう。主イエスが共にいてくださることについて、もう少し複雑な思いを抱いていたのだなと、改めて考えました。けれども、やはり教会の人たちが声をかけ合う、「大丈夫よ。イエス様がいつも守っていてくれるから!」という言葉は、やはり教会の中で何度でも繰り返し語られ、響いていて良い言葉なのです。何度も繰り返し、周りの人からも聖書からも礼拝からも言われていなければ、確信が持てなくなることや、ともすれば、忘れてしまっていることもあるからです。だから、挨拶のように、「イエス様がともにいてくださる」そう声をかけ、互いに思い起こさせるのです。

  主イエスは、どのように今の私たちと共にいてくださっているのか。主イエスはご復活の後に天に上げられました。ルカ福音書の最後24章と使徒言行録の1章9節に記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルカ24:50-51)。
 人々が主イエスを見た最後の姿は、祝福してくださっている姿です。そのお姿を、聖書を記した記者も、居合わせた人々も目に焼き付け、それは今も伝わっているのです。 祝福してくださっている主イエスは今もなお、祝福の手を降ろさずに、そのままに神の右の座に着いておられると聖書は記しています(エフェソ1:20、ヘブライ1:3、使徒7:56)。

 その姿が見てわかるのではありません。今私たちの目の前から天へと昇られて見えなくなってしまった主イエスは、神の右におられる。それは左か右か、ではなく神の権威と力を授けられているのだということを表しています。使徒信条では、この主イエスの権威を、天に上げられた後に、父なる神と共にいて、神と同じ権威と力を持っておられることを告白しているのです。 

 「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」。主イエスは神の右の座におられ、そこで、私たちの執り成し続けておられるのです。洗礼の水が表すものは、私たちの罪を洗い流すことと、水の中に沈められ、これまでの体と生き方に一度死に、そして水から上げられて、新しい命に生まれ、生きることです。主イエスを信じ、洗礼によって神の子とされ、新しい命に生きる者とされた私たちは、その時限りの新しい命を得たのではなく、主イエスによって執り成し続けられているのです。洗礼の恵みは過去のものではなく、今を生かす力として、私たちを支え続けています。生きていて良いのだと知る喜び。過去の経験が、神がご計画をもって導かれていると信頼して受け止めることができる幸い。目の前の困難を主イエスが共に歩んでくださる慰め。私たちに惜しみなく注がれる、神の赦しと、天に上げられた後もなお、私たちを執り成し、祝福しつづけてくださる主イエスの愛によって、今を生かす命を与え続けられているのです。