2023年8月20日主日礼拝
「聖霊を信ず」石丸 泰信 先生
コリントの信徒への手紙1 12章1~3節

【説教録画は <Youtube>】

 使徒信条の言葉に沿って礼拝を献げています。聖書の読み方は実に多様です。教会は信仰の書として読みますが、学問的に古典として読むことも出来ます。人それぞれに読み方、信じ方がある中で教会は聖書が著している神をこういう方として信じます、といっているのが使徒信条です。そういう意味では使徒信条はキリスト教の柱のようなものです。どうして信仰の柱が大切か。ある人は主観と客観は違うからだと言います。時に、神はわたしを赦してはくれない、もうダメだと思うこともあります。これが主観です。しかし、客観的な事実として聖書はどう言っているのか。主観と異なる場合があるのです。主観とはわたしたちから見た世界のこと。客観といったのは神から見たわたしたちと世界のことです。もちろん主観は大切です。けれども、その主観にばかり閉じこもりそうになるわたしたちに、教会は使徒信条を通して2000年間、示してきました。教会が信じる方は事実、こういう方だ。それを信じるか?と。

  聖霊という神と聞くとどのような印象を持つでしょうか。聖霊は目には見えない神の力のようなもの。そう考える方がしっくり来るかも知れません。しかし、使徒信条では、聖霊なる神は父なる神、子なる神と同様、人格的な神であると主張するのです。こういう言い方があります。父なる神はわたしたちとは「別に」働かれる方。天地を造り、今、維持し、将来、新しくされる方です。子なる神はわたしたちに「代わって」働かれる方。わたしたちに代わって、罪を取り除いてくださいました。そして、聖霊なる神は、わたしたちを「通して」働かれる方。別言すれば、わたしたちを見れば、聖霊なる神がどのような方かがわかるということです。

  宗教改革者のジャン・カルヴァンは、使徒信条が言い表しているように、キリストの誕生、その生涯、特に十字架と復活は歴史的な出来事であることをキリスト者は信じているといいます。そして、続けて言うのです。「私たちがキリストから離れている限り、キリストが人の救いのために受けた苦しみも、行った御業も、すべてのことが私たちにとって何の意味もない事である」。言わんとしていることは、たとえ歴史的な事実であろうと、2000年前のキリストの出来事がわたしたちの人生に何が関係あるのか?ということに留まっているのであれば無意味ということです。神の出来事は、私たちの外側で起こった歴史的な出来事です。その恵みを私たちの中に及ばせる事。それが聖霊なる神の働きです。確かにそうだと思います。自分が信仰を持つに至ったことについて、わたしたちは一所懸命、証しします。クリスチャンホームであったとか、中高がキリスト教主義学校であったとか、これこれの出来事があって、とか。それは本当のことです。けれども主観です。しかし、使徒信条は「イエスは主である」という告白は、人間の生い立ち、経験、知恵によって生まれてくるのではなく、聖霊の働きによって与えられるといいます。それを神の方から見た客観的な事実として伝えるのです。だから一人ひとり、神との出会いは違うようで誰もが同じ神と出会うのです。 そして、私たちを通して働かれる聖霊は幾つかの言葉で表されたりします。

 「弁護者」。ヨハネ福音書では主イエスが天に挙げられた後、弁護者として聖霊が来ると言います。ローマ書でも執り成し手として聖霊が紹介されます(8:26)。聖霊は一緒に苦しみ、呻き、慰めてくれる弁護者。カウンセラーです。カウンセラーは一緒に悩むのが仕事です。一緒に呻き、苦しみます。そして、それが、そのまま祈りになるのです。また聖霊は「風」。そして「禁(じる)」という風にもいわれます。時に、聖霊は、人生の追い風になったように感じることがあります。力を抜いたのに上手くいった。神に助けられたと思う。これも本当のことです。けれども、同時に、向かい風として感じることもあります。それをすることを禁じられる。そのとき、わたしたちは、神がわたしから離れたと思います。もちろん、それも本当のことです。でも、私たちの主観でしかないかもしれません。聖書は、時に「待て」という時があることを教えているからです。何かを願うとき。わたしたちは短期なので、その答えにはイエスかノーしかないと思います。けれども「待て」がある。「もう少し留まりなさい」があるのです。主イエスもパウロも経験しました。後になって、そうだったのかとわかるのです。 そして聖霊は「言葉」であり「書」です。何よりも聖書は言葉によって書かれました。

 「コイノニア」という言葉があります。「共有」とか「交わり」という意味の言葉です。それが上手く行かなかったのが今日の聖書箇所です。「コイノニア」の本意は「同じものをもらって生きている」です。それを分け合って生きているのです。その根幹を見ないといけません。例えば、たくさんの子犬と母犬。その子犬たちは母犬から命であるお乳をもらって生きています。それは子犬にとって母犬とのコイノニアです。同時に、同じものをもらって他の子犬たちと一緒に生きます。それが他の子犬同士のコイノニアです。わたしたちもそうです。それぞれ違うように見えて、皆が皆、同じ母犬である神から賜物として命をもらって生きているのです。そういうことを書かれた言葉を通して知ります。聖霊なる神は、言葉を通してわたしたしの内に働くのです。その時、ああ、聖書に書いてあることは本当かも知れない。そういう思いに至る。総じていえば、聖霊はわたしたちを変えてくださる神です。そのことを信じるか?という問いに、はい、信じます、と答えているのが使徒信条です。