2023年8月13日主日礼拝
「希望を見つめて生きる」小松 美樹 牧師
フィリピの信徒への手紙 3章17~21節

【説教録画は <Youtube>】

 本日は使徒信条に即した「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」の聖書の箇所が与えられています。

  パウロがフィリピの町の教会に書き送った手紙を読みました。パウロがフィリピを離れ、指導者が居なくなった人々に励ましの手紙を送っているのです。 審判によって裁かれる時のことをマタイ福音書では25章31節以下に、羊飼いが羊と山羊を分けるように私たちを二つに分ける、と言われています。私はこの最後の審判について、恐ろしい言葉のように思っていた時期がありました。けれども本日の説教の題は「希望を見つめて生きる」としました。主イエスが再び来てくださる時が、裁きの恐れではなく、キリスト者の喜びの時となるからです。この地上で主イエスと再び会うことができる日が来ると聖書は語るのです。私たちは聖書を通して、礼拝を通してこのことを聞いていますけれども、主イエスに直接お会いしたことも触れることも奇跡の数々を見る目のあたりにすることもしていません。しかし人たちと同じように私たちもキリストが必ず来られる将来のこと、それは私たちが希見る将来であると言うことを信頼してこの言葉を告白しているのです。

  最後の審判と言われるこのときは、神の義が成就する時です。神の国の完成は神の義である、神の正しさの完成です。その審判の裁き主はイエス・キリストです。 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」。主イエスが再び来てくださる希望を人々に知らせているのです。この言葉は向河原教会の墓石に刻まれています。 私たちの人生は死ねば終わりというものではありません。教会の墓石に刻まれるその思い。それは、死によって何かから逃げたり、何かが解決するものでは無いのです。死の先に復活の命があるのです。神が裁かれると言う事は、善も悪もない地上の人生の中での損得なども無い、そのような方への信頼を持って、その方が裁かれるということです。神が裁くという事は、誰も私たち人が人を裁くということをしなくて良いのです。人の基準で良し悪しを判断することも、怒りを持つことも無くて良いのです。裁き主は再臨のキリストであります。それが何よりもの深い憐みです。なぜなら、ご自身を十字架につけられ、私たちのために神の審判を代わって受けてくださった方だからです。私たちの代わりに裁きを受けられた方が私たちを裁いてくださるのです。私たちはその裁きに信頼し主に自分の全てを委ねることができます。 そして、その時に主が見てくださるものは、自分が何をしてきたかではなく、主のものとされたという信仰を見て下さるのです。

  使徒信条の「生ける者」が裁かれるという事は、世界が終ってからではなく、人の生きているうちに主の再臨が訪れることがわかります。私たちの日常の中にやってくるということです。また一方で「死ねる者」が裁かれるという事は誰一人として神の審判を逃れることはできないと言う事なのでしょう。 だから死は私たちの全ての終わりではなく、また逃れの道でもないのです。死の先にこそ、神の平安が私たちには必要なのです。神の赦しと平安なしには、肉体の死も何も、解決をもたらさないのです。キリストによる神の救いこそが私たちの誠の安息となるのです。 裁き主である主イエスは、十字架の上でこのように祈ってくださった方です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)。天において私たちを執り成し続けてくださっている主イエスが、私たちのためにこのように祈りを続け、そして終わりの時に神の国の完成の時、再び主に会える喜びの時まで私たちを救いに預かる者として命を捧げ祈ってくださっているのです。 「天の国は近づいた」(マタイ3:2)その宣言と共に到来した主イエスの姿と教会を私たちは見つめ、歩んでいます。しかし、未だ完成していない、やがて完成する神の国、主イエスの再び来られる再臨の時に希望を持って歩みを続けましょう。