2023年6月4日主日礼拝
「他人事ではない」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 27章1~10節

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 イスカリオテのユダの最後が記された聖書の箇所が本日与えられています。ユダの最後の時について記している福音書はマタイだけです。弟子たちからは、会計係をやっていたことから、信頼が厚かったと思われると言われます。 主イエスの有罪判決になったのを知り、ユダは後悔しました。「銀貨三十枚」で主イエスを売ったとありますが、奴隷と同程度の金額と引き換えに主イエスを引き渡しました。ユダには罪の自覚があり、後悔して祭司長たちのところに行って、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。あの方に罪はない、十字架につけられるようなことはひとつもしていないんだと言い表し、銀貨を返しに行きました

 先週の聖書の箇所のペトロは、逃げるようにしながら、女中とやりとりをして、気が付いたときにはもうその裏切りをしていました。 「預言者エレミヤを通して言われたことが実現した」と書いてあります。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」。エレミヤの預言と言われていますが、正確には、銀貨三十枚で値踏みしたという前半はゼカリヤ書11:12-13の引用であり、畑を買ったという後半が、エレミヤ書の引用です。ゼカリヤ書が語る「銀貨三十枚で値踏みされた者」、これはゼカリヤ書では、キリストではなく、主なる神であります。しかも、そこでは、裏切り者が、銀貨を受け取るのではありません。神が銀貨を受け取るのです。神に銀貨を渡す者、それは神の民です。ゼカリヤ書において、神はその民に契約の解消を申し出ます。散々あなたがたに仕えてきたが、あなたがたは私に従わない。それならば、もうあなたたちを導くのを辞めたい。ついては、今までの働きに従って、あなたがたが考える通りに、支払ってほしい。そう神が申し出ると、神の民は銀貨三十枚。たった三十枚を今までの神の導きへの支払いとしたと言うのです。神はその恩知らずに憤り、彼らの支払った銀貨を陶器職人に投げ与えたという神の裁きの心を語る預言です。 ユダのこの行為は、ゼカリヤ書の預言の成就だと言うのです。マタイ福音書だけに記される(ルカが書いたと言われる使徒言行録1:17にも一部触れられているが)、ユダの最後を書き記している意図と言うのが、この旧約聖書から続く救済の歴史の一部の出来事として記されているのです。 ユダは、自分の罪を激しく後悔し、遂に帰るべきところに帰ることができませんでした。祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言います。他の聖書の訳(口語訳)では、「自分で始末するがよい」と訳されました。それはお前の問題だろう。自分で始末したらいい。当時の宗教の専門家がそう言ったのです。神に頼りなさいとの言葉も無く、「自分で考えろ。お前の問題だろう」。そしてユダは、祭司長たちに言われた通り、自分で自分の罪の始末をつけてしまいます。そんなユダのしたことは、神の悲しみとなったことでしょう。 

 学生時代YMCAでボランティアをしていたころ、学生向けに座学というのもがありました。なぜYMCAがキャンプをするのかと言う内容や、キリスト教の理解を深めるための座学など様々ありました。 その中で、今でも特に心に留めているのは、自殺をする子どもたちについての話でした。「その子どもたちが、YMCAのキャンプに参加していたらどうだっただろうか。」と講師は言うのです。一緒に生活をし、キャンプを通して良き理解者が与えられ、励ましを受けるような経験をします。参加する子どもたちもとボランティアの大学生たちは、聖書の言葉を聞いて、YMCAのキャンプの願いを聞きつつ過ごします。 もし、その経験が一度でもあったら、その子どもは自殺せずにとどまってくれたかもしれない。そんなことになる前に、話せる仲間が得られたかもしれない。その言葉を聞きました。 

 ペトロには、思い出す言葉がありました。自分のしてしまったことの悲しさに、激しく泣いたのは、主イエスの言葉があったからです。ユダにはそれがありませんでした。どんなに悔やんでも後悔しても、どんな裏切りであろうとも、主イエスの赦しが与えられようとしていました。ユダも主イエスと共に過ごしてきた一人でした。それでも、主イエスがどんな罪人も赦そうとしておられることを、私たちも繰り返し聞かなければ忘れてしまうのです。世の中に響いている価値観の言葉や、自分で自分を責めるような思いに押しつぶされてしまうのです。けれども、教会で響く主イエスの言葉は、私たちを神の元へと立ちかえせます。