2023年6月25日主日礼拝
「神の子が十字架につけられた時」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 27章32~56節

【説教録画は <Youtube>】

 私たちの教会や聖書で語られる言葉に、とりわけ神の御子が十字架刑で死んだことに「なぜ?」という問いを持つことは、大切なことだと思います。そして多くの人が、今日の十字架の出来事に対して、「なぜキリストは死ぬことで人々を救ったと言うのか?」疑問を抱く聖書の箇所でしょう。 人の残酷さが際立つ聖書の箇所ではありますが、何よりも、主イエスのこの十字架の出来事を通して、神の御子が人々のために生まれ、この地に降って来られた使命を果たそうとするそのお姿をただ焼き付けたいと思います。

 救い主の見る影もない十字架の姿の中にこそ、全てを込めて、私たちの真の王として、御自身を示し、神に身を差し出す神の子のお姿があるのです。私たちの期待にそぐわない王の姿。けれども、その期待外れの姿こそが、私たちの期待を越えて、想像を超えた救いとなったのです。そうして、私たちの弱さは新しい意味を持つようになる。私たちの貧しさは新しい意味を持つようになったのです。

 神さまは、人が思うような強さや、人々に認められるような輝きには、興味がない方だとわかります。神の子は、それらのものを捨てて、世に来られた。天国もその王座も置いて、飼い葉桶の中にお生まれになり、その人生は十字架に至る。弱い神の子は、強い王さまを求める私たちには期待外れかもしれないけれども、弱い神の子は、私たちの弱さ、貧しさに触れることがおできになるということです。聖書には、このお方は、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたから、「私たちの弱さに同情できない方ではない」と言われているお方なのです(ヘブライ4:15)。

 「シモンという名のキレネ人」が突然、十字架の木を負わされます。代わってあげたいと申し出たのではなく、強制的に背負わされました。自発的にではなく、無理やりに担がされた十字架は、彼にとって、巻き込まれたキリストの出来事です。この人は、この時、自分の王、主人に出会い、その方と結びつけられた重荷を、自分の命丸ごとを自分に与えられた使命として選び直したのです。後に教会で知られる名前となり、主に従う歩みをしたことがわかります。 自分が無理やり担がされた十字架。そはれ死刑囚が背負うものですから肩代わりなどしたくないと思うのが普通の事かもしれません。自分のものではないと言いたかったことでしょう。しかしそれは、最後には、自分から取り除かれ、主イエスが担われました。しかし、その十字架は、本当はやっぱり、自分のものであった。それを肩代わりして頂いたのだと受け取り直したのです。 

 受難の聖書を聞いていると、やはり思い起こすのは、イザヤ書第53章の苦難の僕の預言です。「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった」。キリストは私たち一人一人の苦しみに関わってくださる救い主なのです。神が人間とその苦しみや死において一体となるそのための十字架なのです。 神でなければ思い及ばぬことなのです。神は、御子の苦しみにおいて、私たちと一つになっていてくださる。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この叫びは御子だけでなく、神にも悲しみの叫びを与えたことでしょう。そのように子なる神がお叫びになるとき、私達の側では、もう二度と、神に捨てられたということはできなくなっているのです。十字架と復活の御子にあって、神は私達の父となって下さったのです。王宮ではなく、家畜小屋にお生まれくださった御子のゆえに、私達は主イエスに出会い、己の汚さと、神を見つけることができました。主イエスがそのような低みに来られて、私達を見つけ出してくださったのです。