2023年6月18日主日礼拝
「正しいこと」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 27章11~31節

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 主イエスのご生涯を語る福音書に記された、受難の場面には、とりわけ多くの人物が描かれています。ローマ総督のピラトは、当時の土地の占領の裁判によらなければ、死刑判決を決定することができなかったために、主イエスの裁判の場面に登場します。けれども、ピラトは「騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」。ピラトが主イエスを死刑判決にするのは、狂ったように叫び続ける群衆に圧倒されたからであり、正しいと思うことを判断して行うことをやめてしまったのです。正しさのためではなく、自らの保身のための判断をしたのだというのが聖書の記述です。そのようにして、主イエスは十字架へと引き渡されていきました。

  この場面で一人だけ、主イエスを処刑することに明確に反対した人がいます。総督ピラトの妻が「その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」と、裁判の席についている夫に伝言させました。「あの正しい人に関係しないでください」。はっきりと、ナザレのイエスは正しい人だと言っています。 「夢」はマタイによる福音書では大切な場面に出てきます。たとえば主イエスの父となったヨセフは、夢の中で天使のみ告げを聞き、既に身ごもっていたマリアを妻とする決心をしたり、そのあとヘロデから逃げるためにエジプトに避難しました。そのような神の与える夢が、ピラトの妻に与えられたというのです。決してあの正しい人を殺したりしてはならない。きっと、とんでもないことになるに違いないから。その結果、ピラトの名は、その後の教会を支えてきている「使徒信条」の中で、ピラトによって苦しみを受け、死んだということが語られます。確かにこの歴史の中に、あの総督の時代に起きたことなのだと語り伝えられるためです。 正しいことをする難しさが現れているように思います。周りに流されていくことの速さ、容易さが描かれているからです。ただ一人、抗議したピラトの妻の行動も、その抗議によって何かが変わることはありませんでした。しかし、確かに夢によってピラトの妻は示されたものがあり、そのために行動しました。すごいことだと思います。周りの勢いに流されるのは簡単なことですが、それに講義をする。「私一人の意見など言っても何も変わらない」。そう諦めることは容易です。けれども、ピラトの妻は声をあげました。私たちは、正しいと思う事を貫くとき、これまでのマタイ福音書を通して主イエスが語られた教えを行おうとするのに、何を見て行うのか。神を見上げて行うのです。そこには父なる神の喜びが起こる。だから、たとえ小さな意見でも、人から見たらなんて無駄なことだと笑われてしまうような事柄も、主の教えに従い行うのです。 大多数の勢力を見るのではありません。 人に恐怖と圧力をかけた「群衆」。福音書で度々「群衆」に向けられた言葉があります。主イエスは、ついて来た群衆をご覧になり、山に登って、そのひとりひとりに語りかけるように、「心の貧しい人々は、幸いである」。「悲しむ人々は、幸いである」と、語られたことがありました。
 
 また、マタイ9章の終わりでは、主イエスが群衆に対して、「飼い主のいない羊のようだ」と、弱り果て、打ちひしがれているのを見て「深く憐れまれた」とあります。それは、自分のこととして自分自身の体が(内臓)が痛む程だったのです。 「十字架にかけろ」と強く願い出たのはその群衆でした。暴動をおこし、人を殺した罪人として名を挙げられた「バラバ」よりも、群衆は、神の御子を憎んだのです。人間にとって憎むべき存在が、神ご自身にほかならなかったということは、人間の愚かさがここに極まり、同時に主イエスの人々への憐れみもまた極まったに違いありません。そうして、群衆のため、私たちのため、またバラバのためにも十字架にかかるのです。 

 本日は、礼拝の後に教会総会を行いますが、教会の年度聖句を「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」にしました。この罪にまみれた私たちが語る、信仰告白の上に教会を建てると言ってくださるのです。主イエスを十字架へと追いやり、神を亡きものにして、自分を第一としてしまう私たちの罪のため、その罪を負ってくださった主イエス。十字架の上の救い主など、なりたかったわけではないはず。それにもかかわらず、あなたの命を救いたいと言ってくださる方がいる。その事実に打ちのめされ、この方による救いを信じますと語る、私たちの信仰告白の上に今も教会を建たせてくださる神を見つめ、歩みましょう。