2023年6月11日合同礼拝
「祈ることのできる幸い」石丸泰信 先生
ユダの手紙 24~25節

【説教録画は <Youtube>】

 合同礼拝を献げています。教会学校では「主の祈り」の言葉を順番に読んでいますが、今日は「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という言葉です。

 「国」とは支配ということ。思いどおりに出来るということです。「力」とは、決める力。なんでも自分で決めたいですよね。「栄え」とは輝きです。スポットライトを当てて目立つことです。それを、「自分ではなくて、神さま、あなたです」と最後に祈るのが主の祈りです。礼拝も「頌栄」という賛美で終わりますが、主の祈りも賛美の祈りの言葉で終わります。いろいろな願いが心の中にはあるかも知れない。でも、最後に、神さま、あなたにお任せですと祈るのです。

  でも、本当は、こんな祈りをしたくないよね?なんでも自分の思いどおりにしたいと思います。自分で決めたい、自分が目立ちたい。聖書の時代、「国と力と栄え」は王さまのものでした。現代の王さまは誰でしょう?もちろん「わたし」です。誰もが、自分の思いどおりにしたいと心の中で思っています。だから、殆どの人が、「わたし」の思いどおりになったとき、嬉しい、神さま、ありがとう。恵みです、という祈りをします。でも、「わたし」の思いどおりになることって本当に良いことなのでしょうか。「わたし」の言うことを家族も友だちも学校の先生も聞いてくれたら嬉しいと思います。でも、その反対の立場になったらどうかな。いつでも○○ちゃんの言うことを聞かないといけないとしたら、きっと苦しいと思います。わたしたちは、便利に慣れすぎてしまったのかも知れません。殆どのことが思いどおり、計画通りに進められます。でも、人はロボットではない。

 思いどおりにならないからこそ苦しい。でも、思いどおりにならないからこそ嬉しいのです。 旧約聖書の創世記にアダムとエバの話が描かれています。最初、アダムは一人でした。神さまは、そのアダムを「助ける者を造ろう」と言ってエバが出来ました。これは女の人が男の人の補助的な存在ということを言いたいわけではありません。「助ける者」とは「人間として生きることを助ける者」ということです。人は一人で生きていると何でも思いどおりできます。そして、それに慣れるとまるで自分が神さまのようになった気になります。そして、だんだん人間らしさを失っていきます。何でも思いどおりにならないと気が済まなくなります。そういう人ほど困った人はありません。それなのに、当の本人は、自分の思いどおりにならないと「あの人が言うことを聞かない。あの人が悪い。だから、困っています!」と言います。だから、助ける人が必要です。自分とは全然違う存在。思いどおりにはならない存在があなたを助ける人です。ペットを飼っている人はわかると思います。犬やネコはロボットではありません。だからこそ、思いがけず嬉しかったり、驚いたり、悲しかったりイライラしたり。そして、それを越える嬉しさが、思いどおりにならない家族や友だちです。 誰にでも将来の夢ってあったし、あると思います。でも、小さな頃の夢をそのまま叶えている人はとても少ない。どうしてでしょう。その理由は様々ではありますが、その大きな部分は出会いがあったからです。もちろん、自分で起こす出会い・出来事があります。きちんと準備をして努力をして実行するというものです。けれども、それとは別に、全く予期していないときに起こる出会い・出来事があります。もしも、あの時に、あの子に出会わなければ、今のわたしは無い。そういう経験を重ねていくと、いつの間にか将来の夢も変わっている。そういうことがあります。もしも、全部自分の思いどおり、計画通りであれば、起こるはずのない事です。 自分の思いどおりになること。それが最も良いことだと、誰が言ったのでしょう。自分でそう考えているだけなのかも知れません。もちろん、自分の夢に向かって努力することは大切です。一所懸命頑張るべき。でも、自分にコントロールできることと出来ないことがあります。神さまに、お任せしますと祈る必要がある時もあるのです。

 もしも、全部のことを自分の手の中に握っていたいと思ったとき、思いだして欲しいことが2つあります。
 1つ目は、神さまの思いはわたしたちの思いを越えて、良いものをいつも準備しているということ。アルプスの少女ハイジは、教会に通うクリスチャンのお話です。その中で友人クララにいう言葉があります。「神さまがわたしたちの願いを聞き入れてくださらないのは、それは、神さまがわたしたちよりも、もっと良いことをご存じだからなのよ。ありがたいわね」。イザヤ書55章8-9節のような言葉です。
 もう1つは、神さまはわたしたちの祈り・願いに、いつも3つの答えを用意しているということです。神さま、○○してください。そのような願いに、神は、イエス、ノーで答えてくださるようで、もう一つ、「待ちなさい(wait)」があります。ノーではない。もう少し待ちなさいです。 誰にでも自分の思いどおりにならなくて苦しいときがあります。その時、もっと良いことが起ころうとしているのかもしれない。あるいは、もう少し、時間が掛かるのかも知れないと思えたら、今すぐに思いどおりにならなくても良いのだ。神さまにお任せしよう。そういう気持ちになれるかも知れません。「国と力と栄えとは…」という祈りは、そのことを思い出させてくれる祈りです。