2023年5月28日ペンテコステ礼拝
「聖霊の働き」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 26章69~75節 使徒言行録2章1~13節

【説教録画は <Youtube>】

 聖霊降臨日のペンテコステ(主イエスの復活から50日目の意)とも呼ばれる、記念の礼拝を捧げています。
 使徒言行録に記される、「五旬祭」はユダヤ教において過越祭から五十日目に行われる収穫感謝の祭りで、同時にモーセがシナイ山で神から律法を授けられた日として覚えられていました。奴隷だった神の民がエジプトから脱出し解放されたことを思い起こす日です。この日に聖霊なる神が降った、聖霊降臨と呼ばれる出来事が起こりました。 キリスト教会において聖霊降臨日(ペンテコステ)は、クリスマス、イースターとともに三大祝日の一つです。教会学校では 聖霊降臨日は、教会の誕生日と伝えたり、伝道開始の日とも言われます。

  聖霊降臨は「祈るために集まっていた」時に起こりました。聖霊なる神が弟子たち一人一人の中に降り、「炎のような舌」が与えられたのです。この舌を与えられた人々が、そこに居合わせた人々の各地の故郷の言葉を話し始めた。そこで語られたのは「神の偉大な業」でした。 

 本日与えられた聖書の箇所は、マタイ福音書からもあります。教会の中で大変よく知られる話で、主イエスが捕らえられ、裁判に引きずり出されてゆくのを追いかけて行った弟子のペトロの話です。そこに居合わせた人々に「あの連中の仲間だ」と言われ、「そんな人は知らない」とその言葉を打ち消します。そうして三度、主を裏切るのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と言い切ったペトロが、主イエスを裏切り、激しく泣いたのです。主イエスが言っていた「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」の通りだったのです。

  ペトロを問いただしていたのは、兵士であったわけでもなく、大祭司の手下でもない女中でした。そこに居た女中に問われただけのこと、とも見れるでしょう。一方で、近くには大勢の人がいるのだから、「あのイエスの弟子だ」と指さされれば、自分も何をされるかわからない、という恐怖を持っていたとも考えられます。どちらにしても、この時のことは、ペトロと女中以外に知る人はいないような、他に知る人のいない、些細な出来事です。そうでありながら、福音書の頂点ともいえる十字架の出来事に直前に記しています。よく知られた箇所ですが、ペトロが知らない人に適当に嘘を言って誤魔化しただけのこと。私たちの日常にも、ちょっと言い方を濁しただけ。面倒になりたくないから知らないと言っただけ。悪意ある嘘ではないもの。そんなことは日常的なことではないかと思います。けれどもそのような中に、主への裏切りがあったのです。私たちの心に、わずかに訪れる本当につまらない瞬間に、起こっているのが、このペトロの出来事です。これくらいの言い逃れなら。身を守るためなら。そうやって、決定的瞬間ではないと思い込んでいる、取り返せると思い込んでいるその所で、思わずしてしまった否定が、主イエスへの絶対的信頼から引き離すことなのです。しかし、ペトロはその悲しみに留まらず、聖霊降臨の出来事の時、人々の前に立ち「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(使徒2:22)と力強く語り始めました。罪を知り、悔い改めることは、後悔することではなく、神の憐みに圧倒されることです。裏切ったその口が、語り始めたのは「主イエスはメシアである」ということでした。あの悲しい過去も、悲しい自分の裏切りも、主イエスはわかっていて、その私のために十字架にかかりに行き、死に勝利されたのです。驚きと喜び、死者の復活という、この世には無かった出来事を語り伝える者として、ペトロたちは新しい言葉を語り始めました。そうして教会が始まったのです。

  「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 キリストの証人として御言葉を語りはじめたのです。聖霊が降る前は、主イエスの十字架の意味も復活の喜びも分からず、主イエスをどのように伝えていいのか分かりませんでした。しかし、ペンテコステの出来事を通して、聖霊なる神の導きによって洗礼へと導く言葉が与えられ、力強くキリストの十字架と復活を通して罪が赦されたことの喜びを伝え始めたのです。