2023年5月7日主日礼拝
「目が覚める祈り」石丸泰信先生
マタイによる福音書 26章36~46節

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  主イエスは最後の晩餐の後、オリーブ山の麓にある「ゲツセマネ」(油絞りの場)に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と弟子たちに言われ、「ペトロ、およびゼベダイの子二人を伴われ」て、つまり、ペトロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、さらに奥へと進んで行きました。 

 3人だけを伴うときは主語自身の秘密が示されるときです。かつて「山上の変貌」といわれる場面(17章)では、主は光り輝く姿に変わり、神の子としての本当の姿が示されました。けれども、今回は1度目の光り輝く姿と違ったものでした。「悲しみもだえ始められた」と言います。悩む主イエスの姿です。「わたしは死ぬばかりに悲しい」とも言われます。そして、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈ります。この主イエスの悩み苦しみは、これから「杯」を飲むことです。主は御自身の前に差し出された杯を見ていたわけです。この「杯」とは何か。 エレミヤ書49章12節に「怒りの杯」という言葉が出てきます。「主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない」。

 主イエスが見ておられた杯は「神の怒りの杯」です。主イエスは、これから御自身に起こる出来事を、エレミヤの言葉を通して、そう理解したわけです。もしも、神の怒りの杯を飲まなくて良い人があるとしたら、それは主イエス御自身です。しかし、ここで聖書の言葉は「杯」を飲むようにと迫っているわけです。

  聖書は、この方がわたしたちの罪をすべてその身に負われたと言います。神の怒り。それは本来、わたしたちに向けられた言葉でしたが、神は、それを主イエスの前に差し出し、主は最後の一滴まで飲み尽くされた。それが、主が向かおうとされている十字架です。贖いの死。わたしたちの罪を負うとはそういうことです。それが、ここで3人に示された秘密でした。

  けれども、主は、彼らに対して、この意味をよく理解しなさいとは言われませんでした。代わりに言われていたことは「共に目を覚ましていなさい」。そして「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」という言葉です。 この「誘惑」という言葉は4章に出てきた言葉です。「悪魔の誘惑」です。主イエスは、それに打ち勝って伝道を始められました。締めくくりの言葉は「そこで悪魔は離れ去った」(4:11)でした。その後、「誘惑」という言葉は「主の祈り」や「たとえ話」を除くと出てきません。次に出てくるのは今日の箇所です。つまり、再び、悪魔が戻ってきて、主はここで「誘惑」を受けていたと読むことが許されると思います。それは祈りの言葉に表れています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らしてください」。これは主イエスの心からの願いです。しかし、祈りの言葉がまだ続きます。

  ゲツセマネの祈りは闘いの祈りです。自分の願いの後、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という自身の使命の確認が続きます。もしも、御自身の望みだけの祈りだけならば、「わたしを裏切る者」が来る前に、立ち去れば良いのです。それは簡単なことでした。けれども、主は、それを「誘惑」と呼んだのです。それに打ち勝つため、ずっと祈り続けました。聖書には計3度祈ったとありますが、何度も何度もということです。その間、3人の弟子たちの所に戻って伝えた言葉は「目を覚ましていなさい」でした。

  誰もが自分の願いがあります。大抵は大きくないことです。休みたい。やりたくない。会いたい。あれが欲しい。その願いを持つことは大切です。けれども、それだけになってしまって使命を忘れると微睡みます。一人ひとりに体があるように、一人ひとりに神から今与えられている役目、使命があります。だから、主は「目を覚ましていなさい」と言い、自分の願いと同時に使命・与えられた役目をも思い起こす祈りの姿を見せました。

  この使命・役割は一人ひとり違います。そして時と場合によって違うようです。何かに頑張るとき誘惑は現れます。励むからこそ誘惑もやって来るのです。なにも頑張らない人には誘惑は見えない。けれども、それは実は微睡んで使命に眠っているだけかも知れません。母として毎日、お弁当を作るのは大変です。だから、まあ、良いかと休むこともあるでしょう。でも、そのまま微睡んでしまうこともあります。礼拝者として毎週、礼拝するのは大変です。しかし、礼拝を辞めても誰も責めはしません。だから、まあ、良いかとも思います。けれども、体の灯火は小さくなっているかもしれません。主は「心は燃えても、肉体は弱い」と言います。「心」は霊という言葉。「燃えても」は熟す。転じて、進むという意味でもあります。「肉」とは人間ですつまり神が与える「霊」は進んでゆく。けれども、人である「あなた」は弱い。言い換えれば、あなたの使命は進もうとしているが、あなたは弱い。だから、目を覚ましていなさい。そのために祈りなさいという事です。時にわたしたちは誘惑に負けます。微睡みます。それを聖書はよく知っています。だからこそ、主は眠る弟子たちを叱責しません。代わりに「立て、行こう」と主はわたしたちを連れ出そうとされるのです。微睡みを抱えて生きるのがわたしたちです。だからこそ、聖書の言葉は闘われる主イエスの姿を心に刻み込むため、何度も、わたしたちを招いてくれるのです。