2023年5月21日主日礼拝
「人の妬みと汚なさを受け止められる救い主」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 26章57~68節

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 主イエスと名を呼ぶことや、イエス・キリストと言うことは、イエスを「主」と呼ぶことであり、またイエスは「救い主」と呼ぶことであり、名を呼ぶことが、信仰の告白となるのです。このことを、教会で洗礼を受けるとき、誰もが問われます。私たちの信仰は、「イエスとは誰か」ということ、「ナザレのイエスとは何者なのだろうか」。この点にかかってくるものです。

 マタイ16章で、主イエスが弟子たちに尋ねるのです。「あなたがたはわたしのことを何者だと言うのか。」(16:16)と。弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。 今日の聖書は、大祭司が問い、主イエスに答えを求めます。その書き方は、16章のペトロのその言葉と重なるように、大祭司の問いが記されています。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と尋ねます。メシアは「救い主」です。洗礼を受ける前に、「あなたは救い主なのですか?」と問うことを経験した方もいるでしょう。今、礼拝に来ている方にもそのような問いをお持ちの方もいるでしょう。今日の聖書は、そのことが実は主イエスから「あなたはどう思うのか」と問われているのです。 十字架刑を前にしながら、不当な裁判を受けているのに、「イエスは黙り続けておられた」という、忘れることのできない主のお姿です。「お前は神の子、メシアなのか」という大祭司の問い。主が「その通りだ」とお答えになったら、「神を冒涜した」と言って、有罪にすることができるような問いでした。ご自分を責めたて、陥れようとする悪意と殺意の数々の証言にも、何もお答えにならなかった主イエス。

 ここでは、主イエスに問われるのではなく、逆に大祭司が主イエスに尋ねています。大祭司の問いは、私たち人の思いの代表として読んでも良いでしょう。「イエスよ、どうか答えてほしい。あなたは、神の子、メシア、すなわち救い主なのか?」。人の思いの代表というのは、この約二千年の間、「イエスとは誰か。このお方は、いったい何者なのか」と、多くの人が問うてきた程にまで、救い主、また神の存在というものに、人々が関心を寄せているのです。ナザレのイエス以上に、多くの人の興味関心を呼び起こした人はいないでしょう。「イエスよ、あなたは本当に、神の子、メシアなのですか。もしそうなら、はっきりそうおっしゃってください。」という私たち人が抱く問いを、大祭司は尋ねている。また今でも私たち人は、問い続けているのです。 大祭司は、主イエスを陥れるためだけでなく、自らの本心の問いであったのでしょう。主イエスである、このお方の問いの前に、われわれは立たされるのだということを、大切にしたいと考えるからです。 ユダヤ教の人々、つまり、ここで主イエスを裁いている人々は、旧約聖書の信仰を持ち、切実に救いを待ち望んでいた宗教の人々です。「お前は神の子、メシアなのか」と大祭司が問いかけた、この言葉の背後には、既に何百年、何千年と救いを待ち続けてきた中にあって、出てきた問いでした。 人びとは「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った」。この人たちは、皆、聖書の信仰に生きた、救いの望みを抱き続けた人びとです。必死で救いを求めながら旧約の教えを守ってきたはずの人々でした。けれども本物の救いが目の前に現れたときに、これは違う、我々の待っていた救いはこんな者ではないのだと、結局のところ、どんな救いも、救い主も、受け入れることができなかったのでしょう。 

 ある本で、主イエスの愛は「雑巾のようだ」と言っている方がいます。雑巾は自らが何かを汚して、ふき取るのではなくて、自分以外の何かの汚れをふき取り、雑巾が汚れていくのです。主イエスは裁判にかけられている最中に、自らに罪はない事を弁明することができたでしょう。しかし、それをなさらなかった。それは十字架の道を歩むためです。そうして人の汚さを全て拭ってくださるのです。自分で汚したわけではないのに、自らが汚れていく。そのようにして、私たちの罪を、人の汚さを受け止めるために、主イエスは正しさによって裁くのではなく、私たちの罪を受け止めてくださっているのです。