2023年5月14日主日礼拝
「剣を捨て、どこまでも平和を実現する人」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 26章47~56節

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 聖書に記される主イエスの姿は、ユダに裏切られ、他の弟子たちにも見捨てられ、逃げられる姿であり、大勢の群衆に剣と棍棒を持って取り囲まれる姿です。どんなに責められても責め返さない。追い立てられようとも、反発なさらなかったのです。 主イエスは武器など持っておられません。いつも人々の前に手を広げ迎え入れ、ゆっくりと座って語っておられました。「まるで強盗にでも向かうよう」。そのようにして大勢に囲まれました。そのような状況で、一人の弟子が「手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」。 

 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。暴力は暴力を呼ぶ。力で押さえつけることによって獲得する平和。そうしたものは、もっと大きな力によって滅ぼされる。そうした考えは社会の中に根底にあることではないかと思います。 主イエスの言葉は、そんな一般的な理解を大きく変えます。ただ、無抵抗でいることを強要しているのではありません。私たちの国、日本が大切なものを守るため、核兵器を持たない。と宣言すること、平和憲法を掲げるように、主イエス御自身が「暴力を断念する。」と仰っているのです。  相手の剣に対して剣を持つなというとこだけでなく、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」と言われる力こそ、主イエスの戦いの剣です。 

 しかし、主イエスは、この剣をお取りになることはなく、十字架にかかることをお取りくださいました。 私たちには不思議なこととして目に映るかもしれません。主イエスが剣を取るとき、それは必ず勝利する力を持っているから、滅びるのは、主イエスではなく人間です。滅びるのは、力によって抑え込もうとするもの。神の独り子を裏切る者。剣と棍棒を持って取り囲む者。そうであるはずです。たとえ主イエスが剣を取っても、剣で滅びることは無いはずです。それでも、聖書の根底にある言葉は、「あなたが滅びることは、わたしの滅びだ」との思いです。それは、神の愛以外の何ものでもないのです。剣を取らないことによって、私たち罪人を滅ぼさないで、救うということを貫かれたのです。

  ユダへの言葉、「友よ、しようとすることをするがよい」。ユダは、さみしかったのではないかと思います。自分の裏切りの行為を、そのまましなさい、と言われることが。けれども、私たちが聖書から聞くことばは、自分がどう感じるか、とか、どういうことをしたか、ではなく、主イエスがどのようなお方なのか、と言うことです。 私たちの感覚には、武装してきた相手に対して、剣で相手から身を守ろうとすることは正当防衛で守られる当然のことと思います。しかし、主イエスが言われるのは、「剣ではあなたを救うことはできない」ということ。また、それはあなたの身を滅ぼすものになるということです。 私たちが「剣を振るう」と言うときは、字義通りではなく、恐れを抱いているものに反論する時、身を守る時、自分の正しさを主張する時、そのような時ではないかと思います。けれども、それらのことから剣が救ってくれるわけではありません。主の言葉の背後には、「あなたを滅びや恐れから救い出すのは、剣ではなく、私である」という思いがあるのです。 武力、勢力、権力が取り囲む中で、争い戦う思いと剣を持たない主は、その気になれば「十二軍団以上の天使」によって守られ、戦うことのできるお方です。しかしそれをなさらないのは、神の御旨が実現するためです。そうして主イエスは、人々に捕らえられ、侮辱され、殺された主は「あなたの敵を愛しなさい」と教えられました。ご生涯において一度も剣を持たずに、字架つけられました。その父なる神のみ旨を願い、従われ、神の国の平和を表されました。その道以外に、私たちが救われる道はなかったからです。「わたしは剣を捨て、あなたを愛する。」その思いに救われ、守られている命なのです。