2023年4月30日主日礼拝
「裏切られても待っている」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 26章31~35節

【説教録画は <Youtube>】

 主イエスと弟子たち皆で、過ぎ越しの祝いの食事をし、初めての、主の聖餐の食卓を経験し、賛美をしていた。そしてオリーブ山に出かけて行った。その時、主イエスは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言われました。 

 ペトロの返した言葉、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」というのは、正直な思いを表した言葉であり、そのように誠実に願って出た言葉だと思います。主に従い行く自分の思いに、疑いなどなかったことでしょう。けれども、主イエスはペトロにはっきり言います。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」。 

 「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」ゼカリヤ書13章の引用です。主の十字架によって、神が羊飼いなる主イエスを打つということとして主イエスは言われているのです。 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 あなたが転んだ先、あなたが逃げ帰った先、あなたが挫折した先に主は待っておられる。何もかも終わってしまったという思いの先を教えてくださるのです。 私たちを生かすことがおできになる方は、私たちの努力を求めたり、結果次第で判断なさるのではなく、何度やっても、何度信頼しますと言っても、うまくいかない私たちのことを知っていてくださるお方です。もう終わってしまった。もう立ち直れないというそこに、主は死を打ち破り、先回りして待っておられます。十字架の死から復活され、私たちに立ち直るようにと、待っていてくださる主。その主と出会った者たちが、キリスト者となるのです。

  この聖書を聞くと、思い起こす聖句があります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩23)。 羊飼いである主イエスと共に歩む平安に包まれるような御言葉です。その平安が取り去られるのが、羊飼いが打たれるということ。それによって羊はばらばらになってしまうのです。キリスト者にとって、大きな試練です。この御言葉について解説している人は「弟子たちが散らされるのは、弟子の弱さを示す出来事でもあったかもしれないが、それよりも彼らが主の羊であることを示す出来事なのだ」と言います。羊飼いが倒れ、いかに羊飼いの存在が深いものであるかわかっていなかったから。主イエスは、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言ったが、そのことに対して注意しているのではありません。必ずつまずく。なぜなら、あなたがたはわたしの羊だからだ、という言葉が隠れていると読んでも良いと思います。旧約の時代から言われていたように、「羊飼いを打つ」とあるからです。羊飼いを失った羊はばらばらになってしまう。そうして打たれた羊飼いは、もう居なくなって終わりではなく、復活なさって、「先にガリラヤに行く」。そこでまた会おう、と言っておられるのです。裏切られ、もうあなたたちには関わりたくないと言われる方ではありません。「待っている」と言ってくださるのです。

 「つまずく」ということは、試練とか、思いがけないこと、教会につまずくとか、牧師の言葉につまずくということもあります。けれども、今日の御言葉で主がペテロに言ったのは、「知らないと言う」ということ。鞭打たれ、ぼろぼろの救い主を「我が主」とは呼べない。仲間であることがばれない様に無視する。つまりは軽視すること。そのことがペテロのつまずきであり、私たちの躓きとなると言われているのです。 けれども一方で、私たちがたとえ、自分の羊飼いが分からなくなっても、一人ふらふらと、群れを離れて行ったとしても、羊飼いは私たちを知っていてくださいます。イザヤ書53章5-6節に「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのため…彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって わたしたちはいやされた。」。主が十字架によってすべてを負ってくださった、出来事によって、私たちに神との平和が与えられているのです。主イエスは先回りして待っていてくださる。だから私たちは帰るべきところへと帰ることができるのです。