2023年4月9日イースター礼拝
「イースターの朝」石丸 泰信 先生(書科教諭)
ルカによる福音書 24章1~12節

【説教録画は <Youtube>】

 イースターおめでとうございます。葬られたはずの墓は空っぽであった。これが福音書の語る復活の出来事です。それぞれの福音書に伝え方の違いがあります。マタイ福音書では復活の主イエスの印象的挨拶である「おはよう」(マタイ28:9)が報告されています。日常的な挨拶です。しかし、だからこそ、大切。いつか、その挨拶が出来なくなるときが来るからです。
 家族を主の御許に送り出した家族があります。その時、わたしたちのいつも通りが途絶えます。けれども、聖書は、主イエスが「おはよう」と言って起こしてくださる日があることを伝えます。また、「おはよう」という挨拶を相手からされること。これは仲直りのしるしでもあります。互いの関係の“復活”のしるしです。クラスメートと喧嘩してしまった。その翌日、向こうからいつも通りの「おはよう」が聞こえるのであれば、それは、もう良いよ。赦しているよのしるしです。今回、長老に選出された方があります。何より、この「おはよう」を大切にして頂きたいと願っています。わたし自身、何度も救われました。議論でぶつかってしまった後、日曜日を迎え、どんな顔をして会えばと考えあぐねていると、あたかもいつも通りに「おはよう」と迎えられました。だからこそ謝れたことが沢山あります。人は、受け入れられている安心の中でこそ、心から反省できます。また、今日、転入会される方がありますが、他ではない、ここで「おはよう」を互いにすると決めたということです。何でも無い挨拶のようですが、そこから新しい何かが始まります。それを信じているのが教会です。

  他方、ルカ福音書の復活の場面には、主イエスの姿も言葉も出てきません。描かれているのは、婦人たちの姿と墓に響く天使立ちの告知の言葉だけです。婦人たちは途方に暮れていました。墓の「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」からです。手には香料があります。彼女たちは遺体に塗ろうと思っていたのです。婦人たちにとって、このイースターの朝は十字架の日の続きの中にありました。つまり、もう新しいことは何も起こらないと信じていたのです。婦人たちにとっての最善は遺体に香料を塗ること。けれども、それができなくて「途方に暮れて」いたのです。 途方に暮れる。わたしたちも経験することだと思います。これを得たら幸せになれる。合格したら、これを終えたら…。そう思っていたのに違った。その時、動けなくなります。けれども、そこに天使の声が響き出します。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」。これを聞いて「婦人たちはイエスの言葉を思い出」すのです。聖書は、約束から成就へ、ではなく、約束された出来事が成就したとき、その約束を思い出すという形で語ります。 ある人は「人は復活のことを語り出すとき、自分自身のことも語り出す」と言います。わたしも高校で教えていると、その高校生の頃を思い出します。友だちはいましたが、いつも一人であったと思います。大勢でいることは嫌い。独りでいることを好みました。でも、今思えば、そういうことにしていただけなのだと思います。本当はこういう自分を受け入れて欲しい。けれども、方法が分からない。寂しい気持ちがいつもあったと思います。けれども、それを自分で認めることなどできませんので、その思いに上書きして、周りを低く見ていたのだと思います。だからこそ、自分の居場所を求めていろいろなところを捜していたのだと思います。けれども、あるとき、言われたような気がします。どうして、そんなところを捜すのか。そこにあなたの捜し物はないよ、と。 ずっと後のことです。自分が愛の無い態度をしていても、そういう自分を受け入れてくれていた人たちや、愛という方法で自分を見てくれていた人たちがあったことを思い出しました。きっと婦人たちもそうです。これが最善と思って歩いてきました。けれども、そこは空っぽだった。でも、天使の告知で思いだして走り出したのです。この婦人たちは、天使の役目を引き継ぎます。「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」。天使の告知は婦人たちの口に委ねられて広がっていきました。ルカ福音書は、復活の確かな証拠を示すことよりも、復活の出来事が、人を活かす言葉となり、口から口へと伝わっていったのだと語ります。

  今日、洗礼式があります。天使の告知がここまで届き、それを聞いて、信じてみようという決断が為された場所、それが洗礼式です。きっとこれからも揺れ動きます。でも、度ごとに思い出すことがあります。 “三日目に主は復活したではないか。妬みや暴力、愛のない言葉でもイエスを滅ぼすことはできなかったではないか” わたしたちは、聖書の語り、神の眼差し、神の業を思いだして墓から出てくるのです。 

 高校生の春の修養会で「Dead Poets Society」(邦題:いまを生きる)を見ました。全寮制の進学校での話で、両親や権威主義的な教師の支配の中、新任の教師は両親や教科書に疑問を持てと勧めます。生徒たちは、その教師が卒業生で、かつて学内で“死せる詩人の会”を作っていたことを知り、死者たちの詩に親しみ、自ら詩を唱うようになり、真の個人へと成長していきます。一見、個の確立を賞賛する映画です。けれども、この映画の言いたいことは、真の個人への成長の背後にユニークな“死せる詩人の会”という共同体があったということです。それが自分の足で立つ力を与えました。なぜ、こんな話をしているかというと、洗礼を受けた人は共同体の中に生き始めるからです。一人で信じて独立して生きるのではないのです。きっと、これからも、自分の人生をどうにかしたい。けれども、その方法が分からないというとき、葬ったはずの墓に顔を突っ込みたくなるときが何度も来ます。けれども、もう、「おはよう」と迎え入れてくれる共同体、思い出すべき言葉を告知してくれる共同体の中にあるのです。だから、いつでもいまの気持ちを忘れてしまって良い。途方に暮れても良い。主が何度でも思い出させてくださいます。