2023年4月2日主日礼拝
「あの方がしてくれたように」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 25章31~46節

【説教録画は <Youtube>】

 本日は「棕櫚の主日」と呼ばれています。主イエスがエルサレムへと入城して行くとき、人々は棕櫚の葉で主を讃えました。エルサレムに入られた主イエスは、その後、弟子たちから裏切られ、人々からの罵り、嘲りによって多くの苦しみを受けられました。そして十字架の死へと至る道を歩まれた。それが今日からの一週間の棕櫚の主日から始まる受難週の始まりです。 

 23章から、主イエスの地上のご生涯が終わろうとする、その時の最後の説教が続いていました。地上の生涯の最後の言葉が込められています。24章からは、主が再びこの地上においでになり、その時最後の審判が成されるのだということについて、続けて書かれていました。その最後の箇所が、今日聞くべき御言葉として与えられています。 「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」。小さな行為を、愛の行為として語られています。小さな行為。隣人へ思いを寄せること。これを主は喜んでくださるのです。トルストイの「靴屋のマルチン」の話は今日の聖書の言葉によって作られています。私たちの愛の行為だなんて言えないような小さな行いを、主イエスはご自分に向けられた愛だと言ってくださるのです。

  けれども、これらの行為によって、天の国に入れるようになる、というのではありません。小さな行いにまで具体的に現れた信仰。それを喜ばれているのです。その行いをしたか否かが天の国に入れるチケットを手に入れることに関わると言う話ではありません。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』。最も小さい者と主イエスは同じだと言っておられます。けれども、貧しい人を主イエスと同じだと見て、「あの人の中には主イエスがいる。」そうやって奉仕をしようという視点ではありません。あるいは、私たち自身が主から受けた恵みにより、満たされたから、あの人へも贈ろう。そういうことを言っているのとも違います。何の罪もない、神の御子が、最も小さい者となってくださった。その小さな者は私たち自身であるのです。この私と、神の御子・主イエスが、ご自身と私を同じだと言ってくださっているのです。主は、「この人の痛みは、私の痛み」。「あなたの悲しみは、私の悲しみ」。「あなたの孤独は、私の孤独だ」と言って、最後の最後には、十字架の上で死を遂げてくださったのです。 この小さな私と、神の御子である主イエスを同一視して、「わたしはあなたと共にいる」と言ってくださる方なのです。

 小さき者にした小さな行為の一つでも「わたしにしてくれたことなのである。」と主イエスは言われます。小さな者ひとりとは信仰者、私たち一人ひとりのことです。「小さい」とは主イエスと共に生きるとき、気が付くことなのです。助けてもらわなければ生きることができない者と言うことです。神の前に出た時に、私たちは自分が弱い者であること、貧しい者であり、主の支えがなければ生きることができないことを知るのです。主の十字架による罪の赦しの宣言がなければ生きることなどできないものであった、と思い出す時です。 主イエスの十字架への道行は、私たちを生かすため、まっすぐに向かって行く歩みです。主イエスが共にいて、傍らに立ち、慰めを語り、希望を与え、私たちを喜んで生きる者としてくださいました。この小さな私を受け入れてくださった神の愛に、あなたがたも生きるようにと招いてくださっています。いつも足りなさを感じながら、罪を覚えながら、それでも主が支え、生きる意味を与えてくださいます。聖書は、一人ひとりに向けられている神の愛の眼差しに気がついて始まる、新しい生き方に招いているのです。裁きの時まで、その喜びのうちを歩む者でありたいと願います。