2023年4月16日主日礼拝
「世界中で語り伝えられる福音」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 26章1~13節

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 26章からは十字架の主イエスに集中していくように描かれる、受難物語です。主イエスは、弟子たちに十字架を目指していることを告げられます。その頃ユダヤの指導者たちは、イエスを殺す計画を練っていました。

  その言葉に続くのは、香油を主イエスのために捧げた女の話。「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って」いました。労働者の一年分の収入に相当するような額の香油を、女は食事の席に着いておられた主イエスの頭に注ぎかけたのです。嫁入り道具や、結納の品のようなものだったと言うほど、大切に扱われてきたであろう品でした。それを全て注ぎだしたのです。 

 「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」。なぜこんなこと、と言われるような、私たちが読んでも不思議な出来事であると感じるように、弟子たちの目にも、異様なことなのです。弟子たちは、ただ「もったいない」。との思いからこの言葉が出たのではありません。マタイによる福音書の流れでは、信仰の教えに適っているものです。なぜならば「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」とあり、主イエスが十字架にお架かりになる前に最後、遺言のようにお語りになったことだったのです。それは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」でした。

  香油を主イエスに全て注ぎかけた女を見て、きっと弟子たちは、この主イエスの言葉が思い出されたのでしょう。だから、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」。と言った。神が求めておられるのは、献げものでなく、憐みであり、礼拝のために神殿に向かいながら、道で倒れている人を見捨てていくことが求められているのではありません。最も小さい者の一人にしたこと、大それたことでなくても、小さな愛の行為を、神は、「それはあなたがわたしにしてくれた捧げものだ」と喜んでくださるお方なのです。

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が述べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。主イエスは、人の目にみて無駄遣いと思えることを、喜び、褒められました。全財産を捧げなさいと言う話ではないでしょう。ある人は、私たちの信仰、告白、証しというものは、一貫した思想や、証明する言葉ではなく、「やぶれた言葉であることを知りつつも、ただそのありのままを証しする」するもの以外ではあり得ないのだと言います。私たちの信仰生活は、いつでもよく考え、不備のないことばかりができるのではないと思います。一貫性なく、破れたまま、欠けだらけのまま、主に差し出す他ないということばかりです。けれども、主イエスは欠けだらけの私たちの行為を喜んでくださるのです。この主イエスのゆえに、私たちは安心して主イエスに従いゆくことができるのです。 自分の不完全さと、その不完全な献げものを大きく取り上げてくださる主イエスを知るならば、自分自身のことや他の人のことも、絶対の正しさや、間違いを指摘することや、批判することなど私たちにはできないのです。必要ないのだとわかります。私たちに必要なのは、神の罪の赦しと、憐みです。 主イエスは、私たちのために、赦しと憐みを注ぐことを躊躇されませんでした。神は大きすぎるほどのタラントンを預けてくださる方であり、主イエスというお方もまた、宝の無駄遣いをするお方に他ならないのです。「わたしの気前のよさをねたむのか」(マタイ20:15)と言われるほどに、神の愛が注がれ、主イエスは罪深い私たちのために、ご自分の命を注ぎ尽くされたお方。これ以上の無駄遣いはありません。 

 すべてを語り終えて、主イエスが歩みだされたのは、十字架に向かう歩みです。大切な人、家族が犠牲にならなければならない時、「どうしてあなたが犠牲にならなきゃいけないのか」。「あんな奴のためにどうしてあなたが悲しい思いをしなければならないの!」。こんな言葉が出てくるでしょう。あんな罪人のために命なんかかけても無駄だ。そう諦めることはできたのに、神は計算なさらなかったのです。神のなさったことは、愚かなことであったと言われます。けれども、この神の愚かさが、人間を生かしているのです。私たちを、赦し、憐れみ、生かすために、十字架で、ご自分の命を注ぎだされたのです。神の独り子の命が、罪に沈んだ人のために注ぎだされたのです。