2023年3月26日主日礼拝
石丸 泰信 先生(聖書科教諭)
マタイによる福音書25章13~30節

【説教録画は <Youtube>】

 「タラントンのたとえ」を読みました。これは「目を覚ましている」(24:36-)とはどういう意味か、「忠実で良い僕」(24:45-)とはどのような人かを説明するために語られた喩えです。

 1人の主人と3人の僕が出てきます。主人は「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけ」ました。そして帰ってくると「彼らと清算を始め」ます。五タラントン預かった者と二タラントン預かった者は、それぞれ別に五タラントン、二タラントン儲けたことを報告し、主人に「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒められます。他方、一タラントン預けられた者だけ「怠け者の悪い僕だ」と言われてしまいます。どうしてか。「恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠してお」いたと言ったからです。

  このたとえ話は、復活の主イエスが天に挙げられて、再び来られる時までの期間の、神とわたしたちとの関係を表しています。この僕は「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」と言います。この見立ては正しいのだろうかと思います。聖書は大切なことに言葉を重ねます。この箇所が伝えたい第一は、神を見損なうな。この僕のようになるな、ということを裁きの言葉を伴った福音として語っています。まだ間に合うからこそ、良い知らせです。 

 わたしたちは、この主人、つまり神にどのようなイメージを持っているでしょうか。「恐ろしい」という印象はないでしょう。だから、この僕のようにはならない。けれども、神が望んでいる生き方に関しては間違ったイメージを持っているかも知れません。

 「ちびまる子ちゃん」というアニメで学期末の話があります。先生の、今学期はどうであったかという質問に、まるこちゃんは答えます。「わたしは遅刻をしてばかり。宿題も忘れて、悪いことばかりしてきたよ」。すると、別の生徒も答えます。「わたしは遅刻もしていない。宿題は出した。悪いことはしていない。でも、良いことも何もしなかったよ」。わたしたちは、かの日、神の前でなんと答えるでしょうか。おそらく「確かに心の中で罪を犯したことはあります。でも、何も悪いことはしてきませんでした」と誰もが言い得ると思います。けれども、神は尋ねるわけです。「じゃあ、良いことは?」。神はせっかく与えた命、力、仲間。それを何に使ったのか、と尋ねるわけです。一方、わたしたちは、自分のことで一杯一杯です。今日のこと、明日の悩み、老後の心配。けれども、自分の不安を無くすことが人生の目的なのでしょうか。聖書はわたしたちに立派な人間になれとは言いません。ただ、たった一度の人生、あなたへ預けたものをなぜ活かさなかったか。それは問うと思います。人に迷惑を掛けなければ良い、悪いことしなければ良い。そうではない。あなたはここに。あなたはこれを、という神からの賜物に気がついて始まる新しい生き方に聖書は招いている訳です。 

 この一人の僕がタラントンを活かせなかったもう一つの理由は、周りと比較して、自分の評価を気にしたという点もあげられると思います。周りは多い、わたしは少ないと感じたのです。預けられた額、儲けた金額が、そのまま自分の存在の大きさの証明となると考えたのです。もしも、そうであれば、恐ろしくて何も出来ません。でも、主人はそのような視点を持っていません。既に大きな信頼があって、タラントンを預けたのです。自分がいない間、わたしがやっていたようにして欲しい。任せたよ、と。だから儲けた額を問わず、2人に同じ言葉を掛けて喜んだのです。「主人と一緒に喜んでくれ」と。 一タラントンを預けられた僕は、周りと比べて少ないと思いました。けれども一タラントンという価値を現在の貨幣価値に換算すると6000万円になると言われます。決して小さい額ではありません。聖書は、そういうものを一人ひとりに預けているんだと言うのです。けれども、本当はとても大きいのに、周りを見て、自分の存在の大きさを比べていると、どうしても小さい、少ないと思ってしまう。これも何かを見損なっているのではないかと思います。 タラントンという言葉は、タレント(才能、能力)の語源です。けれども元々は、そのような色は付いていません。ただ「賜物」という意味です。働きの対価としてではなくタダで僕たちはタラントンをもらいました。対価なしに与えられるものを「恵み」、「賜物」と言います。もしも自分の才能のような能力を指して、「神から与えられた自分の長所」と言うのであれば、「短所」は何でしょうか。「神からの呪い」でしょうか。けれども、聖書は、その何れも「賜物」、「タラントン」と言うのです。わたしたちが能力だと言っているものだけでなく、自分で劣等感を持っているものも神は良いものとして与えられました。それをわたしたちの方で勝手にレッテルを貼っているだけです。 人から羨まれる長所は、人を喜ばせたりもしますが、同時に相手を傷つけたりもします。けれども、自分の欠点、短所、コンプレックスで人を傷つけたりはしません。むしろ、相手の弱さに共感して励ましにもなり得ます。わたしたちは、思っている以上の大きな力を預けられているのです。上手く出来ない、恥ずかしい、隠したいという思いは一タラントン預けられた僕と同じです。誰もが、そのような思いを持っています。しかし、与えられている賜物にしっかりと目を留めて生きるとき、目を覚ましている、忠実な良い僕といわれる歩みがもう始まっているのだと思います。