20230年4月23主日礼拝
「まことの贖罪」石丸 泰樹 先生(根津教会協力牧師)
マタイによる福音書26章14~30節

【説教録画は <Youtube>】

 イースターはキリストの言い現わすことのできない、尊い愛と犠牲によって打ち立てられた愛のしるしです。 
 長崎の原爆が落とされました時、長崎大学の放射線科の医師の方が当時ガラスを顔いっぱいに浴びた。ガラスが取りきれなくて、血が止まらずに長い間、苦しみました。そうしながらも伝道し、また紙芝居を作り、子どもたちの礼拝を守り、イエス様のことを伝えた。その活動の様子が『如己堂随筆』(永井隆著、アルバ文庫)にあります。その中に書かれていることで、驚いた発想があります。 全ての教会に十字架が立てられていますが、ゴルゴタの丘に十字架を立てた時、十字架を立てるために穴に落とし込み、立てる。 その穴を、永井医師は地球の「へそ」だと言い現わしました。へその緒は赤ん坊への全ての栄養を運ぶものです。地球にもう一度愛が満ち溢れて、健全な世界となって、この地球が神の祝福の下にずっと生き続けるために、神様の国と私たちの世界とを繋げてくれているのが、十字架を立てた穴なのだと書いています。

  十字架はイエス・キリストが、私たちのために想像を絶する犠牲を払ってくださったことを現します。そのことをキリスト教会が決して忘れることのないようにと定めてくださったものが「聖餐式」です。 本日の聖書が聖餐式の内容となる箇所ですが、主イエスが弟子たちに最初の聖餐式のやり方を示してくださったものです。これが教会の「洗礼」と並ぶ最も大切な行事です。

 聖書はイエス・キリストを信じる信仰によってただ一度だけ洗礼を受けることで、全てが清められると教えています。ヨハネによる福音書の洗足の物語のところで(13章)弟子たちにおっしゃった、ただ一度の洗礼で私たちが本当に清められたということを、主イエスは、聖餐式の前に仰っているのです。その清めの他に、自分で努力して何かする必要はなく、「全身清いのだから」(ヨハネ13:10)と。 洗礼による清めが先で、聖餐はその後に行うようになるもの。 洗礼は一度だけで良いから、その後、聖餐は何度でもやりなさいと言われているのです。カトリックのミサでは毎日聖餐が行われています。それぞれの教会によってその頻度は異なりますが、続けることが大切なのです。 聖餐式が無ければ、神に救い取られた者として、生きていくための真の力が湧いてこないのです。私たちの体に母親のへその緒を通して、必要なものを全部頂くように、聖餐の恵みを通して、ここにイエス・キリストがその肉と血とを捧げ尽くしてくださった「しるし」があるのです。十字架のしるしと同じように、聖餐式もしるしです。そのしるしを謙遜に頂くのです。十字架のしるしを見て、「それはただのしるしか?」と思われることもあるでしょう。しかし、ただの飾りが大変な力を持つのです。十字架が建物にあるということが、ここに神の言葉が語られている。ここに、神に従う洗礼式が行われている。そういうしるしになる。十字架が建っているということは、隣人を愛しなさい。イエス・キリストは私たちのために命を捧げてくださったことのしるしです。

  マタイ26章の始め、食卓を整える時に「無名の奉仕者」として記されている人がいます。人々にではなく、神様に覚えられている。神さまの前に生きてきて、その喜びが、人に知られているかどうかは問題ではなくなるのです。 私たち一人ひとりには洗礼を受けたときに、聖霊が内に宿り(Ⅰコリント6:17-)。よこしまな事柄にも、不正な誘いにも負けないで生きていく。聖餐式のパンと葡萄液が私たちの内に聖霊が宿っているということを、聖餐の度に確認する。一生涯続いて、そのたびに何度でも立ち直り、清くなった自分が、神のみ言葉に従って生きていく力を、この聖餐の恵みによって得るのだと主イエスは仰るのです。そうして、最後の晩餐で弟子たちに、御自分の肉と血のしるしをお与えになったのです。