2023年3月19日主日礼拝
「思いがけない出来事の時に露になる」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書25章1~13節

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 24章の最後は、忠実で賢い僕のことが書かれていて、25章からの話の中に、その忠実で賢い僕の、「賢さ」はどういうものかと言うことにおいて語られています。また、14節からも忠実な僕ということは、どうゆうことなのかについて記されています。

  「そこで、天の国は次のようにたとえられる」。天の国について、マタイ福音書の13章にもまとまって書かれていました。ここでまた、天の国について書かれているのは、天の国と主が再び来られる再臨の出来事との関係として語られています。終末の話、つまりは将来の話です。そこには天の国があることと、主イエスの再臨が起こるのです。天の国は、神の支配があらわになることです。神の支配があらわになるのは、主イエスの再臨によって示されるのです。 たとえ話は、結婚の祝宴が舞台です。私たちの向かう先、将来は、喜びの祝宴のようなものなのです。けれども、その喜びの祝宴に預かるか否かは、私たちがどのように生きるか。それによって変わっていくのです。 十人のおとめが祝宴に招かれていました。ユダヤの結婚式は日没から始まり、花嫁を花婿が迎えに行き、花嫁を連れて、自分の家に行き、婚宴が始まります。おとめたちは花婿が花嫁の家に向かう時に、出迎える役目がありした。 

 「五人は愚かで、五人は賢かった」。ともし火は持っていたのに、「油の用意をしていなかった」からだと言われています。「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」。思いがけず、花婿の到着が真夜中になった。つまりすっかり遅くなり、眠り込んでいる頃に、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたのです。「ともし火」だけでなく壺に「油」を用意していた五人の賢いおとめたちだけが、花婿を迎えて、一緒に婚宴の席へと入っていった。「油」を用意していなかった五人のおとめたちは急いで店に油を買いに行っている間に花婿は来てしまい、用意を整えたときにはもう入れなくなってしまったのです。時間は区切られてしまい、「開けてください」と懇願しても、もうそこには限りがあり、間に合わなかったのです。 花婿が迎えに来るのは、主イエスの再臨の時です。それは喜びの時でもありますが、天の国に入るかどうかの審判の時でもあるのです。

 「わたしたちのともし火は消えそうです。」と言う五人に対して、分けるほどはないのだと、賢いおとめは断りました。これは、人から分けてもらったり、他の人には変われないものなのです。神の用意してくださっている将来の希望に預かるか否かは、誰かに分けてもらって叶うものではないのです。人生を誰かが代わってあげることなどできるわけもなく、またどのように歩むかも、その一人一人が決めているのです。だから、そのことによる結果も、自身で受け入れなくてはならないのです。決して、その選択が愚かだというのではありません。また、「目を覚ましていなさい」との呼びかけに、眠ってしまったことが愚かなのでもありません。おとめは全員寝てしまっているのですから。眠り込んだけれど、ともし火をともし続ける油の用意があったというのが賢さです。ともし火を絶やさぬ油の用意をしていることが「目を覚ましている」ことなのです。十人皆が、ともし火を持っていた。希望を持って、油を用意していた人たちは、花婿がくる、ずっと先になっても待つつもりでいた人たちです。遅れることもあるかもしれない。花婿が来た後も、まだともし火は絶やさない。そう考えていたことでしょう。もう一方は、その場のことまでしか考えていなかったのだと思います。夜の暗さに、ともし火を持って、待っていた。けれども、その先までともし続けられる油を持っていなかった。 ここで言う「賢さ」は「目を覚まして」いることではなく、花婿である再臨のキリストを待ち望み続けられるか、ということなのです。私たちの日々には思いがけないことが起こります。自分の計画通りにはいかない。予想もしていなかったことが起こります。どれも簡単に解決はしないことばかりです。マタイ福音書が記された時代の困難も、短いものではありませんでした。この時、人々が耐え続け、生きるために必要だったもの。希望を絶やさないことでした。苦しみのなかにあっても、必ずや来ると信じて待つ。 それが油を用意していたおとめたちなのです。