2023年3月12日主日礼拝
「主の慈愛と峻厳」 石丸 泰樹 先生(根津教会協力牧師)
マタイによる福音書24章45~51節

【説教録画は <Youtube>】

 受難節は日曜日を除く、40日間を過ごします。どんなに悲しいことがあっても、日曜日には暗い顔をしていてはいけない。どの世界にあっても、いつでも、どのような状況にあっても、喜びの日であり、甦りのイエス・キリストに出会った、その日を数え上げながら賛美するのです。 

 日々の生活の中で、「目を覚ましていなさい。」と、24章の中に書かれています。どこに向かって生きているのか。目を覚ましているように、しっかりと日々の歩みを考えて生きていく。目を覚ましているは「グレゴリオ―」というギリシャ語です。代々のローマ教皇はこのことを大切にしてきました。教皇の名を付けるとき、神の前に目を覚ましているという言葉を掲げているのです。

  「忠実で賢い僕」。今何をすべきか、どういう準備をするべきかをいつも考えているわけです。「時間どおりに彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕」。皆が安心して過ごせるように整える僕です。全財産をある僕に託したという話です。これは創世記の初めからある、神様と私たちの関係です。創世記で、この世界を神様はもっとも良いものとして祝福なさって、お造りになって、私たちに委ねられました(1:31-2:19)。私たちがどのように用いてもいいのだ、と奪い合うのではなく、この世界に生きている喜びを分かち合いながら、賢い僕のように過ごすことが求められています。

  「全財産を管理させる」。僕に委ねて、主人は出かけた。良い僕と、悪いと思われる僕もいる。神さまはそのような僕に注意しておられる。そのことは、パウロの手紙の中に幾度も出ています(ガラテヤ5:22-)。みんながこれを心に留めながら生きていれば、どんなにすばらしい、安心した世界に生きることができる。それに対して反対も指摘しています(ガラテヤ5:19)。この出来事を聖書はパウロの言葉で、「慈愛と峻厳」と言われています。ローマの信徒への手紙11:22 では「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。…」。大変厳しい言葉であり、また神の荘厳なご支配、崇高なご支配を持っておられる言葉。深いご自愛を持っておられる。そこに、神様の峻厳のあり方が現わされる。「慈愛」は聖書にいくつも出てくるが、「峻厳」は残酷な処刑を表す熟語です。真っ二つにする。八つ裂きにする。もう少し優しいものでは、鞭打ち刑にすること。鞭には釘のようなものが付いていて、肉が飛び散り、血が飛び散る。弱い者ならこれで命を失うことがある、非常に残酷な刑罰。主イエスも十字架にかかる前、鞭打ちをお受けになった。神様の峻厳を、イエス・キリストご自身がお受けになって、引き受けてくださって、私たちの罪のために、贖いの供え物として、贖いの業をしてくださったのです。 

 「償い」と「贖い」の言葉の違いは、ガラスを割ったり壊した時、代金を弁償する時、「償い」の字を使う。「贖い」は、命をかけて弁済する。命ですから、お金で値段を付けられないものです。お金に代えられない命ですから、本当は、命は贖えないのです。主イエスがしてくださったのは、ご自身の命を差し出して、全人類の命を贖い取ってくださる。そうゆう御業をしてくださったのです。それが今の受難節の時に、私たちが覚えていかなければならない大切なことです。ヨハネ福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。お金に代えられない私たち一人一人の命を贖った。峻厳という言葉は、どんなことがあっても贖いとる。それができない時には、目の前であなたの子どもを八つ裂きにすると言われるようなことになる。切り裂いてでも罪を償わせるという意味が「峻厳」の中に意味がある。 この言葉を語られた主人は、深い慈しみを持っていて、どんな時でも、時間通りに彼らに食事を与えることにさせた忠実な僕。それがイエス・キリストです。どの人も神様の愛してやまない人なのです。球根の中に命が込められているように、一人一人に花開く命が、一人一人違う命の輝きが隠されている。それに気が付き「私はこの花を咲かせるんだ」、「このように歩んでいく」。それが、神様の慈しみと慈愛と峻厳。ですから自分の命を守り、命を大切にすることによって、峻厳な覚悟を持つ。そしてその覚悟を持って、全世界の人たちと共に生きていきましょう。レントの季節にもう一度深く心に覚えてまいりましょう。