2023年3月5日主日礼拝
「必ず来るから、目を覚ましていて」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書24章36~44節

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 弟子たちの質問(24:3)に答えるように主イエスがお語りになる言葉が続いています。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも、子も知らない」。父なる神と御子イエスは固く結びついています。「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられる」(ヨハネ14:10)と言うほどに。しかし、御子である主イエスは「その時」「知らない」。主イエスが尋ねれば教えてくれたかもしれませんが、細かい事はお尋ねにならないのだと思います。神が決められることに、主イエスは委ねておられる。それは神への全面的な信頼です。私たちの信仰生活でも、すぐには答えが与えられないこと、すぐにはわからないこともあります。しかし、神の愛は変わることなく、私たちを包んでいる。そのことに信頼して、神にゆだねたいと思います。

 もし「いつ、終わりの時が来る」とわかっていたら、同じように落ち着いて毎日を、主に仕えるように、隣人に仕えて過ごすことができないと思います。それがずいぶん先のことであれば、「それまでは来ないのだから」と、目を盗むような思いが出てくるかもしれません。あるいは、思いがけない早い時期に来るならば、それこそ平常心ではいられません。けれども、そうではなく、目を覚ましていなさい。つまりは、用心していなさい、と言われます。

  創世記6-8章のノアの物語のことが記されています。ノアは神からのご命令に従って、箱舟を造り始めます。最終的に箱舟に入ったのは、ノアの家族と動物だけ。ノアが神から箱舟を造るようにと命ぜられてから完成して洪水になるまでは100年もの時間が経っていました。準備期間はたっぷりありました。箱舟のことは人々のうわさになっただろうと思います。「なぜあの男は一人で巨大な船を造っているのか?」、「洪水が来るからと言っているがそんな様子は全くない。気が変になったのだろう」などと言われていただろうと思います。箱舟に乗るようにと、人々に対して救いを宣べ伝えた。でも、人々は箱舟に入ろうとしなかった。どうしてか。見たことのない出来事に、信じる気にもならなかったのでしょう。ノアは孤独だったと思います。ノアは人々に最後まで洪水が来ることを語り、いっしょに箱舟を造るよう呼びかけたことでしょう。しかし、人々は手伝わなかったし乗らなかった。ばかばかしいと思ったのかもしれません。そうして、箱舟の戸はノアの後ろで閉ざされた(創7:16)。神が戸を閉められたということです。もう誰も船に乗ることができなくなる。そういう時が来るのです。滅びること、時間のかかること、目の前で起きないことは信じられない。信じる必要がないと思うのかもしれません。 「その時」が知らされないのは、今を落ち着いて生活するためでもあります。私たちは、信じたからと言って、避難生活をするのでもなく、警戒して非常食を持ち歩くのでもありません。「だから目を覚ましていなさい」と、主イエスは言われます。キリストの再臨は「思いがけない時に来る」からです。 「目を覚ましていなさい」は、準備をしていなさいという意味で使われています。それで、泥棒を警戒している主人にたとえられています。「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やってくるかを知っていたら…押し入らせはしないだろう」と。主イエスが泥棒にたとえられ、「目を覚ましている」ことについて言われています。いつ泥棒が家に入ると知っていたら、泥棒に入られることはないに違いありません。備えをすることができるからです。しかし実際は、いつ泥棒が入るかは分からない。だから常に備えをしておくことが必要だ、ということになります何も心構えなく、このことが起きたなら、「こうしておけばよかった」、「あれをやっていたら変わったかもしれない。」と、心構えをしてこなかったことを悔やむでしょう。しかし、いつ来ても良いのだ。そうゆう時は来る。と備えているよう勧めています。 「一人は連れて行かれ、一人は残される。」 「連れて行かれる」と訳されている言葉は「受け取る」とも意味します。準備のできている人々が、天の国へと受け入れられること。主イエスが帰って来られるのを、心待ちにしているように準備をする。首を長くして待つように、心待ちに、目を覚ましている姿です。出かけてしまった主人を忘れてしまうような関係性ではなく、いつも主イエスが伴っていてくださっていることを覚えて歩む生活です。