2023年2月5日主日礼拝
「産みの苦しみの後の喜び」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 24章1~14節

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 聖書には、よくわからないなと思うことや、私たちの理解を超えた神の計り知れない計画があることが記されています。
 「小黙示録」と呼ばれる聖書の箇所を読みました。ヨハネの黙示録に似ています。「黙示」は、「秘密を明かす」「隠れたものが、あらわになる」ことを意味します。ここでは、「世の終わり」の秘密です。24章が小黙示録と言われるのは、主イエスを通して、私たちに隠された世の終わり、終末の出来事が知らされるからです。 
 
 23章38節「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」とあります。この「お前たちの家」は、ユダヤの人々の神殿を意味していました。自分たちの家はここにある、自分たちの魂の拠るべきところはここにあると思っていた家。それは神の家である神殿です。その神の家が見捨てられてしまう、というのです。神殿は大理石で造られ、美しく、離れたところからもよく見えたといわれ、人々はその神殿を見ては感心する、素晴しい建物でした。けれども、主イエスは「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われました。 人々は神が住まわれる宮である神殿が、何時の日にか崩れるなどということは考えていなかったでしょう。物はいつか壊れる。命はいつか終わる。そう思い、頭ではわかっていても、私たちは死の先の自分のことを考えたり、壊れては困る、失われては困るものに自然と頭と心が向いています。それは人々の拠りどころでもあります。 

 「また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」。主イエス・キリストが「来られて」、それと同じくして、「世の終わるとき」と書かれています。「世の終わり」と訳している言葉は「完成」という意味があります。世が終わると聞くと、崩れの予感を覚えますが、「世の終わり」は崩れることや、破滅ではなく、完成なのです。それが私たちの将来への望みであり、希望です。世の終わりは、完成されるときで、そのために主イエスは来て下さるのです。

  「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」。 酷い戦場の話を聞くと、もう終わりだという思いが過ることや、日本の地震の予測を聞くと、恐ろしくなります。けれどもそれらが「終わりの時」だと言っているのではありません。戦争も、飢饉も、地震も起こる。この言葉によって、私たちは不安になります。けれども、主イエスは「惑わされるな」と言われます。それらは終わりではないからです。世界を終わりにするのは、人の思いではなく、神がお定めになる時です。

 「これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」。神殿という建物が滅びるということは、弟子たちを始め、人々には、世の終わりに等しいことでした。私たちにも「これがなくなったら、どうなってしまうのか」と心が揺らぐ程のよりど拠りどころとなっているものがあると思います。聖書は、神殿の崩壊、世の終わり、を通して、私たちの大切にしている拠りどころ、自分の生きがいを終えるときが来ることを伝えています。もしそれらが突然に奪われた時、私たちは足元から崩れ落ちる思いをするかもしれません。大切な家族を失い、たとえそれがどのような関係性であったとしても、自分の心の一部が失われるような、虚無感にも襲われることがあると思います。何も手に着かない。けれどもその崩壊は、死や滅びに向かう苦しみではないのです。新しいこと、喜びに向かっているのです。産みの苦しみは、まさにそうです。その先に何があるのか、正しく知らなければ、痛みと恐れに耐えられないでしょう。けれども、何かが起ころうとしている。そのために今がある。それが産みの苦しみです。その苦しみが去るのを私たちは待つ。そのことが期待されています。神の業が現れるのを待つのです。今がもう終わりだと決め付けてしまわず、耐え忍ぶのです。 

 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」。惑わすもの、不法、人の愛の冷える出来事に、心が動かなくなってしまうようなとき、それでも神がこの世界を、私たち一人一人を諦めずに希望を持って、完成の時を喜び祝うことを望んでおられます。そのために主イエスが私たちの元へと来てくださったのであり、また完成の時に来られようとしておられるのです。