2023年2月19日主日礼拝
「苦難の後に」上野峻一 先生
マタイによる福音書24章15~31節

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 福音書の中の小黙示録と言われる「終末」に関する箇所です。
 「預言者ダニエルの…」と、ダニエル書の黙示思想を引き継ぎ、詩や物語のように黙示文学と言われる独自の記述のスタイルがあります。終末、世の終わりに関すること、将来のことであるために、人々にとって興味関心のある内容と言えます。だから、時に黙示文学は、都合よく利用されることがあります。聖書のこの記述は、まさに現代のあの出来事だ、いよいよ聖書に書いてあることが起こった。という具合です。恐怖心を煽ったり、脅したりする人がいてもおかしくありません。主イエスが地上の歩みをされた時もそういう人たちはきっといて、またそういう人たちがいつの時代も現れることがわかっておられて、今日のように語られたのでしょう。
 大事なことは、主イエスの御言葉を、今、生きている私たちが、神の御言葉として聴くことです。現代においても、終末のメッセージを聖書から聴き取る必要があります。

  黙示は、元々のギリシャ語で「覆いを取り除く」という意味があります。秘められていることが明らかにされることです。このテキストが小黙示録と言われるのは、主なる神さまの秘められていた事柄が、主イエスの口を通して明らかになるからです。けれども、黙示が指し示す具体的な事柄については、どれだけ聖書をよく読み、また権威ある聖書学者であっても、明確にはわからないというのが正直なところです。最もわからないことは、「いつ」という「時」であって、「何が」起こるのかは既に語られるのです。主イエスは、どのような時代を生きていたとしても、終末の到来の可能性を意識するようにと言われます。信仰者としての生き方が語られているようです。

  「そのとき」と記されたところで、「地上のすべての民族は悲しみ」とあります。キリストが再び来られても、いや、人の子が来られるゆえに「悲しむ」。地上の歩み、人生が終わる悲しみと同時に、聖書に記されている神の言葉の真実を前にした悲しみであるように思います。終末を意識して生きていなかったということです。24章から繰り返し、終末について、つまり天の国の完成、キリストの再臨について記されるのですが、その時を意識し、目を覚まして、準備しておくことが促されます。これは黙示録において「いつ」が明らかにされていないことと繋がります。いつでもある種の緊張感をもって生きていくということです。もちろん、終末における徴はあります。それに気づき、それを悟るようにと、主イエスは語られます。しっかりと世の中の動きを見て、信仰者としてのアンテナを張っておく必要があります。「いつか」わからないから怠惰になるのではなく、「いつ」来てもいいようなキリスト者としての生き方が問われています。
 
 ただし、そこには避けられない患難、苦難と呼ばれるものが、確かに起こると主は語られます。「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。いよいよそのときが来たら、命をかけて戦え、ではなく、逃げていいと言われるのです。もう、終末の時が来たからです。

 「家にある物を取り出そうと下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」。これはユダヤ人にとって衝撃的なことでした。神は神殿におられると考えられていました。エルサレムという神さまがおられるとされた「場所」を大事にします。だからこそ、70年ユダヤ戦争の立てこもりや聖地死守の信仰があるのです。主イエスが、終末の始まり、大きな苦難の日々において「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ…安息日にならないように、祈りなさい」と言われるのも、逃げるためです。

 最も大きな苦難は、主によって期間を縮めてくださらなければ、耐ええることができないと言われる程の苦しみがあるのです。一体何が起こるのかと恐ろしくなります。けれども、私たちが聴くべきことは「神に選ばれた人たちのために」という言葉です。神さまは、私たちをお選びくださると、安心して受け取っていいのだと思います。このような聖書の御言葉が、私たちに届けられていることが、神さまの選びのうちにあることのしるしです。また同時に、御言葉を聴いたものとして、主の福音を受け入れたものとして、他の人々に伝える責任も負います。それが、今日の聖書の前にあった「全世界に福音が伝えられる」ことと繋がってくるのです。 

 23節以下については、学校でよく生徒たちに「偽物のキリスト教会の見分け方」というものを話します。シンプルに伝えます。それは、本物の教会は「救い主はイエスさまだけ」ということです。問題の始まりは、指導者が「自分がメシアだ」、「キリストの生まれ変わりだ」と宣言することです。仮に、刑法に引っかかるような社会問題を起こしていなくても、すべての過ちは、ここから始まります。主イエス・キリストのみが、真の救い主です。この方以外の者を信じることは、私たちを神の救いから引き離すことになります。それは、どれだけ立派な牧師であっても、名高い権威ある聖書学者であっても、彼らを信じるのではなく、またそれらを判断する自分自身を信じるのでもなく、聖書の御言葉を信じ、主イエス・キリストを信じることが何より大切です。

 私たち人間は、目に見えるものに対して、とても弱い存在です。そのような自分を知っているからこそ、イエス・キリストの十字架の救いへと、いつも心を向けることができます。信仰者として、上手くいかないことや失敗することは当然あります。けれども、その度に、何度でも、主のもとに立ち返ります。いつも御言葉に聴き、祈る生活を続けます。苦難の後には、必ず希望があります。聖書は、終わりは決して終わりではないと証しします。主なる神さまによって用意された新しい扉を開くために、今日もまた、主イエスが来られる時を待ち望みつつ、歩み始めたいと思います。