2023年2月12日音楽礼拝
「苦難の中にあっても」飯 顕 兄(霊南坂教会会員)
ヘブライ人への手紙 12章1~6節

【説教録画は <Youtube>】

 私たちは今、大きな苦難の中にあります。このコロナ禍が始まる以前にも私たちには日本の国内だけでも多くの災害や宗教の違いによる困難や苦難がありましたが、その中でも やはりコロナ禍はこの半世紀の中で一番の大きなものではないでしょうか。 コロナ禍によって多くの人や多くの職種がその生活様式や仕事の様式を変える事を余儀なくされ、マスクをつける事が常識のようになり、人の目を見ることはあっても顔を見ることはとても少なくなったように思います。 私自身も、仕事の様式が大きく変わった中の一人であり、また私と同じ多くの音楽家の方々の中には、コロナ禍の初期に生きるためにその職を離れた方も大勢います。  その中にあっても、私は今日の聖書箇所にあるようにこう思うのです。「これこそが主の鍛錬である」と。 

 今日の聖書箇所には「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」とあります。私たちの罪をすべて引き受けてくださった主イエス・キリストあっての言葉です。私たちはみな、今までも、今も、これからも、イエス・キリストが贖ってくださった私たちの罪から逃れることは出来ない、と私は思います。けれど、その罪や重荷に囚われてはいけない、とも思うのです。私たち自身が自分に定められている競争を走り抜く時までは。

 今日の聖書箇所の最後には「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」ともあります。私たちは、常に神や主キリストから苦難を与えられ、鍛え、鞭打たれているのです。 この苦難の中にあって、私たちのような音楽家に何ができるのか。恐らくコロナ禍初期には多くの音楽家はそのような事は考えられず、『自分は果たして明日も音楽家として生きられるのだろうか』と考えていたと思います。最初の緊急事態宣言が明けた時から私たちの仕事も少しずつではありますが戻ってきました。そして今、ほぼコロナ禍以前と変わらないほどまでにコンサートは戻ってきています。

  皆さんは、どのような時に音楽に触れるでしょうか。また、どのような時に音楽を欲するでしょうか。今の世の中において音楽、または楽器の音を全く聴かない日は(テレビなどのデジタルの媒体を含めば、ですが)少ないと思います。ある人はそれを聴いて癒され、ある人は慰められ、ある人は掻き乱されるかもしれません。つまり、必ずしもプラスに働くことはないかもしれません。ですが、私はそれでいいと思っています。何故なら、聴いた人の感情に訴えかける事が出来るのが音楽であり、私たち音楽家の本懐であるからです。

  このコロナ禍において、私たちは人に会うことを避け、いつからか社会的な距離だけでなく、心の距離まで離れてしまったように思います。そのような時にこそ、是非音楽に触れてほしいと私は思うのです。できれば、オンラインではなく、オフラインで。何故なら人との関係がオンラインで は少し希薄に感じられるように、音楽もジャンルを問わずオフライン、つまり『生』の方 が、色々なものを感じられるからです。『生』という字は、そのまま『生きる』という事だと思います。皆さんの『生きる』実感のために、私たち音楽家は存在しているのではないか、それこそが私たちが、私が音楽家としてこの苦難の中に生きる意味だと、私は感じています。