2023年1月29日主日礼拝
「復活」川嶋 章弘 先生(横浜指路教会)
コリント人への手紙Ⅰ 15章12~22節

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 本日の箇所の冒頭12節に「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあります。 コリント教会の中で、「死者の復活などない」と言う人たちがいたのです。彼らはキリストの復活がない、と言ったのではありません。キリストの復活はあった。それを信じてもいる。でも「死者の復活などない」と言ったのです。彼らは世の終わりの死者の復活を否定し、洗礼においてすでに復活が起こったと考えました。肉体を伴わない、いわば心の内面における復活が起こったと考え、地上の歩みにおいて自分たちは復活した者として生きていると主張し、「死者の復活などない」と言ったのです。

  そのように言う人たちに対して、13節でパウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言います(16節も同様)。ここでは、私たちの復活をキリストの復活から切り離してはならないことが見つめられています。切り離してしまうなら私たちの復活はキリストの復活と関わりのないものになってしまうのです。コリント教会の人たちはキリストの復活を知っていました。しかし死者の復活を否定した人たちは、キリストの復活を必要のないものとしたのです。それは「キリストが復活しなかった」と言うこととなんら変わりありません。 キリストの復活を知っていても、死者の復活を否定するなら、結局、キリストの復活をなかったことにしてしまうのです。

  14-15節でパウロはこのように言っています。「そして、キリストが復活しなかったのなら…神に反して証しをしたことになるからです」。教会は「キリストは死者の中から復活した」と宣べ伝えてきたし、今も宣べ伝えています。しかしキリストの復活がなかったことになるなら、今まで宣べ伝えてきたことも、今、宣べ伝えていることも「無駄」になってしまうのです。 それだけでなく私たちは神に偽って証しをしていることになるのです。

 また17節でパウロは「そして、キリストが復活しなかったのなら…あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とも言っています。キリストの復活がなければ教会の宣教だけでなく私たちの信仰もむなしいものになり、主イエスを信じていても、私たちは今もなお罪の中にあることになってしまうのです。それは、私たちが今もなお罪の赦しの下に入れられていないということです。もしキリストが復活しなかったなら、キリストの十字架の死はただの一人の人間の死でしかなく、それによって私たちの罪の赦しが実現したという保証はなにもありません。しかしほかならぬ神が、十字架で死なれたキリストを復活させてくださったことによって、キリストの十字架の死によって私たちの罪が赦されたことを私たちは確信することができるのです。なお日々罪を犯しているにもかかわらず、キリストの十字架と復活によって私たちがすでに罪の赦しの下に入れられていることは微塵も揺らがないのです。 

 キリストの復活を信じるとは、世の終わりの死者の復活を信じることです。別の言い方をすれば、キリストの復活が私たちの地上の歩みだけに関わるのではなく、地上の歩みを越えて関わると信じることです。そのことを信じず、すでに救いが実現したことだけに目を向けて生きるならば、私たちは「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」なのです。そうであれば私たちは人生の中で直面する耐え難い苦しみや悲しみ、不条理な現実に打ちのめされるしかありません。救われて生きているのに、なぜこんな苦しみや悲しみを味わわなくてはならないのか、なぜこんな不条理な現実に直面しなければならないのかと悲嘆するしかないのです。

  なによりも私たちはこの地上の歩みにおいて必ず死を迎えます。私たちがすでに救いが実現したことにだけ目を向け、キリストの復活は私たちの地上の歩みにだけ関わると考えるなら、私たちは自分たちが死を迎えることに絶望するしかありません。死んだら終わり、ということになってしまうのです。しかし決してそうではない。パウロは20節で「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と宣言しています。「初穂」は、その年の最初の収穫のことであり、その後に収穫が続くことを保証しています。ですからキリストの死者の中からの復活が、「眠りについた人たち」の初穂となったとは、キリストの復活に続いて地上の生涯を終えた人たちの復活が保証されているということにほかなりません。地上の生涯を終えて死んだ私たちも世の終わりに復活させられ永遠の命を生きるようになるのです。だから私たちはすでに救いが実現したことだけでなく、その救いの完成にも目を向けます。世の終わりに救いが完成し、復活と永遠の命に与ることに希望を置くことによってこそ、私たちは人生において苦しみや悲しみを味わうときも、不条理な現実に直面するときも、決して絶望することなく生きていくことができるのです。教会から一歩外に出れば、「死んだら終わり」と考えている人たちは大勢います。しかし教会はそのような人たちに「キリストは死者の中から復活した」と宣べ伝え、死で終わらない復活と永遠の命の希望を告げ知らせるのです。なお苦しみや悲しみに溢れている世にあって、私たちは復活と永遠の命の希望に支えられ励まされ慰められて歩んでいくのです。